私がそうで、友達もちょっと家庭が複雑で、ペットをそれぞれ初めて同時期に飼い始めてました。
私は大型犬で、父や母は私の前ではかわいがらなければ、私が二度と会わないというものだからかわいがってはみせていました。
でも、ペットに対する考えがもとから違う人たちなので、私の満足するものではありませんでした。
友達は私より半年遅れで小型犬、結婚間近でペット可のところに新居を急いで探すということまでしていました。
ペットへの無条件の思いは、私は親からもらえなかったものでした。
友達のは、私に伝えてくる内容では違ったものでした。
人によって違うんだと、責めることはせずに、黙って聞きました。虐待ってわけじゃないんです。
散歩に行くのが苦痛、行きたくない、犬のことは好き。
経済的に無理しているせいでフードをまとめ買いして、虫がわいた話などがあったりもしましたが、大事に思ってないことはないんです。
彼女は私より早くにメンタルの問題が大きくなり入院もし、その間、犬はご主人が全部世話をしてくれ、そうしてご主人のが犬との関係を深めていったようにも思います。
大型犬のが寿命が短い、私はそれが怖くて怖くて、その日が来ることが迎えて1年もしないうちに怖かった。
とても頭がよく、やさしい犬で自慢だった。親がいなくても、この子がいればいいって思えた。
母の自死は外でのことで、犬には事情がわからない。取り乱す私を黙ってみていた。散歩に行けるようになったのはいつだったか覚えてない。
私は鬱病が悪化していた。最後の望みで、その犬の最後の時は一緒にいてやりたかった。
いろんな理由があったけど、それもあって退職を決めてしまった。後のことを考えれば、その決断は失敗だったと思うけど、その時はそれが最善だと思えた。
最後の時はゆっくりと近づいた。立てなくなった。食べる量がどんどん減った。でも最後の時、私の腕の中だった。それが私にとっては救いだった。私のこの子の最期はこうでありたいっていう願いはかなえられた。
もう十分だから、二度と飼うことはない…はずなのに、何もいない生活に耐えられなかった。今度こそはエゴとしか思えなかった。
退職してどんどんお金が無くなっていて、前のようにペットにふんだんのお金をかけられる状況ではなくなっている、それ以外の外部、父、姉、親戚らかの黒いものしか見えてこない。
そんな中でかよわいペットを守れるのか。
今、その子はまだいる。なんとか守っている。でも、自分の生活を落としても、ペットフードの質は落とさない私はおかしいとも言われる。
前の子とこの子は全然違う子というのはわかりきっている。でも、ペットロスのあの思いをもう一度味わう自信がない。
じゃあなぜ飼った。最期を全力で受け止める覚悟もないのに飼うような人を軽蔑していたのは私だ。
ちゃんと愛してる。大事に思ってる。
死ぬことを受け入れられない。
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