「いい人宣言」がどれほど危ういものか…。
「私はいい人です、だから誰も傷つけません」と言っても、でも、それって誰にとっての、どういう意味での「いい人」なのってなるんじゃない?
「良い」とか「悪い」とかは人によって基準が全然違うし。
ふと思ったんだが、自分の周りの人(友達や家族)は、自分が自分を「いい人」と認識していても、誰かにとっては自分は「悪い人」ですらあるかもしれない。
そもそも、「良い」「悪い」は人の人格に対してあまり使うべきじゃないのでは。なぜならそれは、具体的な事柄にしか使えないから。
「この服は色がいい」だとか「この曲は歌詞がいい」だとか、「この映画は脚本が最悪だ」だとか「あの言葉の使い方はよくない」だとか。
もしかしたら「いい人」とは「思いやりのある人」や「気遣いのできる人」と言う人もいるかもしれないけど、でも「思いやり」も「気遣い」も、とても漠然としてはいないだろうか。
本当は人はいい面も悪い面もあって然り、なのかも。
ここからは別の話。一応つながってるけど。
インターネットで特に犯罪にまつわる話題を見ると「いい人」たちが攻撃的になるのをよく見かける。
犯罪は悪でも、きっと普段は「いい人」たちが、突如血相を変えたように暴言を言うのは、自分は見てて怖くてならない。
あまり大きな声では言えないが、犯罪者もまた誰かにとっての「いい人」だったのかもしれない。
もしかすると、人は「いい人」ゆえに悪事を働くこともあるのではないか。
自分は「いい人」だという一見揺るぎない、それでいて根拠のない信念があって、それが何かの要因で傷つけられた時、人を悪事へと駆り立てるのではないか。
「これはいい事のはずなのに、なぜ犯罪なのか、ふざけるな、やってやる」、と。
当然犯罪は肯定できないが、「善」や「悪」は、簡単に決められないほど繊細なものであると思う。
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