自死した人を美化する風潮が嫌い。
必要以上にあしざまに言う必要はもちろんない。でも優しい人だから死んだんだとか、やたら聖人化して人格を持ち上げるのは嫌い。
繊細な人や優しい人が自死することはそりゃある。でもそれは「死んだその人は生前繊細な人、優しい人だった」で良いのであって「繊細『だから』死んだ、優しすぎ『たから』死んだ」みたいな言い草で、人格と死を因果関係づけるような言い方するのが嫌い。それだと生きてる人は全員優しくないと言ってるみたいだし、繊細な人で死なずに頑張って生きてる人は「それは大した繊細さじゃない」と言われてるようにも聞こえるからそういうの大嫌い。
自死を選ぶのは本人の自由だけど、それを別に特別扱いしない、神聖視もしなくていい。他の死因の人と同列、平等の丁寧さで取り扱うだけでいい。
可哀想だねとは思うけど、それを言うなら事件や病気や事故で望まず命奪われた人だってよほど可哀想。彼らは予測もできず心構えもなく命をもぎ取られるんだからきっと凄く怖いだろうし本当にかわいそう。
「自ら命を断った人は尊い」みたいなのは、大昔の大義や矜持のために切腹したサムライには適用されたかもしれないけど、もはやその時代ならではの過去の遺産。今の時代の人は侍の時代みたいに国のため君主のために自らの命を捧げて生きてないんだから今更その自死の美徳の価値観だけを引き継ぐなんて無理がある。
自分から見たら辛くても死なずに生きてる人の方が儚いし尊い。
だって死んだ人は死んだ時点からもうそれ以上それ以降苦しまない。死ぬその瞬間やそれに至るまでの逡巡はとんでもなく苦しくて悲しくて寂しかったと思う。それを「大したことない」とは全く思わない。しかし今後も続く予定だった生きる苦しみはまるっと回避したわけだよね?とは思う。
それに対して、あらゆる苦しみが今度も起こるのわかっててそれに立ち向かわなきゃならない「いま生きてる人」はずっとずっと可哀想だし、それでも「死ぬのが怖いから」だとしても生きてるってのは、とても健気だと思う。
その生きながら葛藤する姿こそ神聖
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