今晩は いつもお世話になり有難うございます
今回の小瓶は、負け犬の遠吠えとして読んで頂けたら嬉しいです
5○ゃんねる(旧2○ゃんねる)、ガールズ○ゃんねる、ヤ○ーコメント(通称ヤ○コメ)、発○小町といった、
心無い、弱ったメンタルに鞭打つような言葉、酷い差別や、傷口に塩を塗り込むような言葉、
そして数々の、心身をえぐる心無い言葉が発せられる温床とされてきたネット上の場所が存在する。
(T○itterという旧称で、現在エッ○スという名のSNSも、そうかも知れない)
そして私は、それらの言葉のために、治らないトラウマが付いて回る事になった。
”何であそこ(上記の場所)にいる発言者達のうち、わざわざ人の傷口に塩を塗り込むような事を言う人間がほぼ全て、或いは大半なんだよ!?
何であんな酷い書き込みをする人間達が、この社会に存在しているんだ!”と思った事が少なくない。
そして、そんな場にいて、悪い方に、ネガティブな方に流されそうになった自分の弱さに愕然とし、心の底から恐ろしくなった。
彼らの言う事に従うのが、神様の御心にかなう事で、あの連中は光の使徒で、神様はそういう連中こそ天国に迎え入れられるんだと思ってしまっている自分に、酷くゾッとした。(グロテスクな内容ですよね)
群集心理に取り込まれてしまいそうになる、弱小で愚劣な自分に、ものすごい嫌悪感を持った。
私も機会と縁さえ揃えば、あの連中と同じになってしまうんだ、という悪い予感があった。
更に、ネット上の誹謗中傷をしていた奴らの中には、そこそこ社会的特権のある連中もいると知って、気が狂いそうになる程の怒りを覚えたこともある。
そんな連中が、何のペナルティも無くおとがめ無しで、野放しにされるとしたら、何を信じたらいいの?
ネット上で酷い書き込みをする連中に対し、頼むから、子どもの親にも、誰かの配偶者にも、恋人にも、親友にもならないでくれ、と言いたくなる。
また、非常に反社会的な内容だというお叱りを頂く事を承知で、書かせて頂くが、
あの破壊的カルト集団は、罪の無い人々ではなくて、あの連中を標的にテロ行為をすれば良かったのじゃないのか、という思いさえきざして来る。
あの連中を、一定の広さの囲いの中に入れて、逃げ惑うそいつらに対して銃を撃ち込みまくる、という事をやれたら、相当痛快で、爽やかな気分になれるだろうな、とも思う。
そして、色々の凄惨な事故を今まで見聞きした事があるが、あの事故の犠牲者達が、罪なき人間や動物では無しに、あの誹謗中傷をした連中なら良かったんだとさえ思う。
私に残された唯一の希望と夢は、凶悪犯罪者になって、そいつらを殺し、死刑になる事しか無いんだとも考える。
もう逃げたい。でもあれらの誹謗中傷の温床に関する事柄が、世の中のあちこちにある気がして、逃げられない。
心無い言葉や誹謗中傷の温床、地獄同然の場所であったこれらのネット上の空間が、
今や社会問題に対するプロテストの場、社会を変えるネット上の世論が生まれる場として取り上げられるのを、何度も目にしてきた。
でも私は、その事が気持ち悪くて嫌だし、拒否反応がどうしても生まれてしまう。
(名だたるメディアが、それらの場に言及するのも、胸糞悪い。
そりゃメディアだって、慈善団体じゃなくて、営利企業の一つだもん、閲覧数を少しでも多く挙げて、
利益につながるのなら、私のようなノイジーマイノリティの遠吠えなど、無視したってかまわないよね)
特にいじめとか児童虐待、酷い凶悪犯罪についての怒りの言葉が並んでいるのを見ると、
私なんかは”酷い差別とか、人を傷つけ壊すような言葉の温床となって来た場所や空間にいる連中が、
(汚い言葉ですみません)何を今更、どの面下げて、反省も無く恥ずかしげもなく、ご立派な言葉を並べ立ててるんだ”ぐらいにしか思わず、一歩間違えれば冷笑的な思いになりそうなのを、グッとこらえている。
この変化が起こったのは、ここ20年位の事だけど、私にはとても短期間での激しい変化に思えて、ついて行くことが出来ない。
この流れに、うまく乗る事も出来ない。私は茫然として、虚無的になって、立ち尽くすしか出来ないような気持でいる。
うまく言えないけれど、世の中への信頼なんてもう捨てている。世の中がどれだけ薄っぺらで冷たくて、信頼できないものか、嫌と言うほど思い知ったからだ。
この世の中は、罪の無い人を人柱にし、理不尽に犠牲者を出し続けながら、永続回転して行くんだろうし、それはこの先もずっと変わらないんだろう。
(我ながら狂った言葉ですが)
それなら私は、いっそこの世の中の人柱か、犠牲者の側に回りたい。捨て石になっても良いとさえ思っている。
それらのうちの一つが、神様から与えられた役割だと思えば、納得できる。
ここまで読んで下さって、有難うございました。