『愛』という感情の反対は『憎しみ』ではなく、『無関心』なのだとマザー・テレサは言う。
そして、『愛』と『憎しみ』は表裏一体のコインの様なものだとも…。
つまり、何かの拍子に『愛』が『憎しみ』に変わったり、『憎しみ』が『愛』に変わったり、ということだ。
だから私は、人間というものは、『無関心』な人物に対しては、あまり見ないが、
『愛』もしくは『憎しみ』の感情を抱いていれば、その対象をよく見ていると思う。
基本的に遠くからよく見て、近くでは目を合わせない。
人は『憎しみ』を抱いている人物に対しては、近くにいる時はもちろん、話している時でさえ目を合わすことをしない。
そして、遠くから憎しみを込めた眼で、その人物のあら探しをする。
『愛』している人物に対しても、似た様な視線が送られるが少し違う。
人は『愛』している人物と話している時、目をあまり合わせないが、
近くにいて通りすがる時にチラ見する。
遠くから、その人物を探し、追いかけて見る。
……あくまで、これは私の主観ですが、皆さんはどう思いますか?
ちなみに、ここでいう『愛』している人物に対する視線は、片想いの場合です。
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ななしさん
私は世界一のブスだから誰からも愛されない。
みんな顔しか見てないんだから。
愛している人も美人が大好き。
美人が好きな人も美人も大嫌い。
憎い憎い憎い。
自転車泥棒より
ななしさん
簡単に
近ければ意識をする
見たりするのは無意識に起こること
と思う
ななしさん
それらは執着と置き換えてもいいかもね
ななしさん
愛でも憎しみでも共通するのは
相手のことを気にしている状態であることと
相手の言動に一喜一憂すること
だと思います。
一方、無関心の場合
気にしませんし、一喜一憂もしません。
例えば
相手がお年寄りに席を譲ったとき
愛ならば
「優しくて気配りができて素敵」と思うでしょう。
憎しみなら
「偽善者ぶりやがって」
と思うでしょう。
無関心なら
「席譲ってるな」
あるいはそもそも気づかないでしょう。
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