子供のころからずっとそうで、三十路を超えた今もこれからも多分死ぬまでずっとそうなんだろうと思いながら生きています。
楽しいこともあるし、幸せな瞬間も多分きっとおそらくたくさんあります。あったと思うし、これからもあります。言い切れるのは幸せなことだと思います。
肉体的にもきっと健康で、何不自由なく生きてきたと感じます。上と下に際限がないというだけで。
けれども、楽しいこと、幸せなことと同じぐらい死にたい瞬間も多く、それでも生きていたくないなあと思うことが多いだけで。
幸せなら大丈夫。楽しい時間があるなら大丈夫。
多くの人はそう言います。だから私は「大丈夫」なんです。きっと。
もし「大丈夫ですよ」と言ってくださる方がいるなら、安心してください。だから明日も明後日も、生きてる限り生きています。
悲しむ必要もないです。別に悲しんで欲しくもないです。心配してほしいわけでもないんです。
じゃあどうして、って言われるとやっぱり共感してほしいからだと思います。
「大丈夫」なことだけで生きていけたら、本当にきっと大丈夫になるのになぁ、と言われるたびに思います。
私の「大丈夫」なことは、生命の柱ではありますが、それら一本一本が柱に傷をつけていくものだと感じています。
傷を修復したり、柱を丈夫に、綺麗に持続させるために必要な努力ができないから、私は駄目なんです。
それを甘いと言われることも、変えていけと言われることもあります。変えられるなら、変えられたなら、今こうしてこのお手紙は書いていません。残念なことです。
変えられない自分、甘い自分を嘆いていると、「そのままでいいんだよ」と言ってくださる方もいますね。
そのままでも苦しいから、嘆いています。
じゃあどうすりゃいいんだよ。どうして欲しいんだよ。そうおっしゃられるでしょう。私もそう思います。私が私じゃなかったら、確実に。「めんどくさい人間」だと思います。私が私でも、そう思っています。
だからここに投げました。
そのままで、満足に生きていけたらきっと、本当に「大丈夫になれるのになぁ」そう願ってなりませんが、そうはならないでしょう。
多分「そうしたい」人はたくさんいて、きっと私だけじゃないんです。
私は、私だけじゃないんだからみんなそうなんだから、そうすればいいって思ってました。そう思います。
けれども、だからってでも、それをすると、社会そのものが動かなくなるだろうという事実的な側面も少しだけ見えてしまいます。
「私だけじゃない、私みたいな人」がたくさんいるように、「そうではない人」もたくさんいると思います。
その人たちだけで支えるには、きっと難しいのだとも感じます。
誰かが辛い人一人を支えて救い上げれば、みんなが救われるわけじゃないように、
私が死ねば救われる命が確かに一つ存在して、それなら私はそれを選びたいと思う。それだけのこと。
それだけのことが、許されないことが、私は許せない。
でもじゃあ、私が目の前で死にたい命を助けたくないか、助かって欲しくないかというとまた別の話になるから、私は自分がとても面倒くさいと感じてなりません。
明日の私は、たぶん今日より元気だし、きっとこの長文を見るに堪えないんだと思います。
それでも流さずにはいられなかったのです。
何もできない、する気の起きない人間でも、とりあえず息をしてはいますよ。それだけのことがこんな長文になってしまったことを、お詫びいたします。