特別虐待を受けた訳ではありません。
衣食住はあり、学費も出して頂き、風呂にも毎日入れる環境でありました。
これは、親と呼ばれる肩書きを手に入れた人物が自分の子供を育てるために現代社会に於いて「最低限用意すべきもの」です。
曰く、母が子供の時分にはこの「最低限」がなく、親からの庇護もなく、衣食住の全てが黴と埃に塗れていたと語ります。
私は常々思っておりました。特に、母より「お前は私より恵まれているのだから」と言われる度に。
「知らねえ。」
初めから、私がこの世に生を受けた時から確かな事がひとつあります。私は母ではなく、母は私ではないこと。
母は、自分の名が画数の多い可愛らしくない名前である事がコンプレックスだと私にひらがなの名を付けました。私は、書く度にそれを思い出し不思議な気持ちになりながら少年期を過ごしました。
育ちが育ちでありますから、母は早くに鬱病を患いました。そしてそれは、私を身篭り、胎から育てる頃より悪化の一途を辿ったそうです。
私の記憶にある幼年期は、待てど暮らせど迎えに来ない親を待つ保育所での景色、学校でいじめを受けながらも私には隠し親の代わりに音読の宿題を聞いてくれた兄と出来合いの食事を共にする景色、そして、ヒステリーを起こし物を投げて薬を大量に飲み、私を心中に誘った母との夜の景色です。
ここに、一般的、常識的に最低限の生活はあったんだろうかとずっと疑問でございました。
少なくとも私にはこればかり見えていて他のことなどろくに覚えていませんから、主観的には最低限スレスレです。
母が言うには、もっと愛情をもって育てたと、そう語りますけれども、私の幼少期の記憶は概ね上記のとおりですので、何一つ響かないということになります。
では、その頃母が何をしていたかと言えば、ええ、寝込んでいらっしゃいました。
鬱ですから仕方ありません。挙句望んだ子について、義父母から「堕ろせ」だの、産んだら産んだで半ストーカーの彼らに何かあれば「子が泣いている」と電話されたそうでございます。それはノイローゼにもなるでしょう。可哀想な話でございます。
私には関係ありませんが。何せ当時の私には自意識さえ無いですからね。
さて、昔語りはここまで。次は私が何故早く消えてくれとまで願うのかと云う話であります。
単純な話、私自身鬱病を患ったからでございます。
母の心中未遂、もとい自殺未遂は一度だけではありませんでした。ことある事に、もう、何度も行われている惨事でありました。
「服薬では死ねない」
といつか母が語っておりました。ならばするなと言うのが人情であります。
母は働いておりません。働けないと云うのが正しいでしょう。鬱の他に、糖尿、詳しくは書きませんが、指定難病をお持ちでいらっしゃいます。
立派に年金の貰える障害者でありましたが、私が成人する今日まで障害者年金の申請のひとつもしておりません。
昔に、小遣いを貰っていなかった私が、友達と買い物をしてみたさに親の財布から金を抜いたことがありました。その時は「これは労働と引き換えに父が稼いだ金なのだ」と叱られました。真っ当なお言葉でございます。
では、その金で得た薬で意味の無いオーバードーズをするのは叱られるべき行為では無いでしょうか。
入院沙汰になり、私が金を出した事もありました。巫山戯るなよ。
最近ですと、その件で「何故死なせてくれない」などと言うものですから、直近の母の自殺未遂についての私は救急車さえ呼びませんでした。
悪意はありません。その時の私は、私自身自殺未遂をしてしまい、それが引き金となり母の自殺未遂に繋がったのです。ですから、服薬で意識の朦朧とした私からすれば、救急車を呼ぶなんてことは出来なかったというわけです。
結局は母のメッセージで飛び帰って来た父により救急搬送されて行き、まだしぶとく生きているのですけれども、その時の母の「じゃあお前は何をしていたんだ」という言葉には目が零れる心持ちでした。
私自身死にたいと日頃思っているのですから、止める理由などありません。死にたければ死ねば良い。
それを咎められてはもうどうしたら良いのでしょうね。私は、死なないで欲しいと言われるよりも、死んで構わないと思想を肯定される方が心持ちが楽ですから、そうしているに過ぎないのに。なんてことを思うわけでございます。