自己の満足のために書くお返事も、わたしにとっては嬉しいのだ。小瓶主さんに対する優しさではなく、自分に対する優しさがそこにある。それは大切なことだ。
「あ、たぶんこの人、自分が自分の考え書きたいだけだ」って思うお返事があったとして、「まあ、それでもいっか」って思うのはたぶんわたしが自分自身を肯定したいからなんだろうけどね。
私が持つ他者に対する優しさは『寄り添うふりして、自分を満たすためなんじゃないか?』そんな疑念が晴れないのだ。
そんな自分を肯定したいがため、他人のそれも認めざるを得ない感じ。
結果、それが『優しさ』になることに違和感を覚える。
わかっているんだ。己を信じられないから、他にも疑いをかけること。必死になんだか肯定しようとしてるということは、根本は否定だらけということ。
これが『わたし』だということ。
と、いって、『わたし』のすべてはこれだけではないし、今言ってること全部嘘という可能性もあるのが『わたし』だ。
今日も自分らしくいこう!
自分らしさがなにかわからない自分のままでいよう!
朝起きて、トイレ行ったり、歯磨きしたり。
知ってる。それがいかに幸せかって。そして苦しいことだと。知ってる。皆が言ってるし、私もそう思う。
今日もどっかで誰かが殴られてる。言葉で、拳で。
今日もどっかで誰かが笑っている。友達と、家族と。
そんな世界で皆が頑張って生きてるの、知ってるよ。
見てきたよ。聞いてきたよ。それなのに、なにも動かなくてごめんなさい。できる人に任せてごめんなさい。
一緒に笑う役も、一緒に傷付く役もできなくてごめんなさい。
ぼくは、ひとつの小瓶。
そっときみの傍らに「おつかれさま」