大概の人間は視野が狭い。
私もその一人だ。
根拠にもならない少しの傾向、情報を見て全てを知ったかのように錯覚する。
最初の文もそうだ。
残酷に映る世界を見て人は世界を残酷と言い。
人を感激させる美しい景色を見て人はなんて世界は美しいのだと言う。
ものは見方や視点でどうにでもなってしまう。
固定概念が崩された時味めて気づく、何が残酷で、何が美しいかを。
私たちが住むなんでもないこの世界は、美しく見え醜くも見えた。
ただそれだけなのだ。
私たちが新しい視野を自ら手に入れるのは難しい。
多様性や客観的思考から新たな視点が生み出される。
そこで初めてモノの本質をみることができる。
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物事を客観的に見たり、
多様性について考えるって
結構難しい事だと思います。
そもそも「客観的」って
自分の立場や主観にとらわれずに、
第三者目線で物事を冷静に
見たり考えたりすることの意味ですよね。
「客観的」の対義語が「主観的」で、
自分の立場を基準にして物事を
見たり考えたりすることを意味する。
多くの人が納得する様な
「客観的な意見」って
考えるのも発言するのも
困難なのではないでしょうか。
人間って主観的に発言するし…。
新しい視野を見つける為には
自分の中での固定概念を
壊さなければいけないし、
大変だからこのままで
良いんじゃないか…と
思っちゃったりもしますけどね。
3通目の方お返事有難うございます。
そうですかね…本質って難しいんですよね。本質だと思っていたものが、一つの視点一つで180°変わってしまうのが現状で。
視野や視点ていうものは、自分が見える範囲しか見えないんですよね。
ましてや、新しい視野視点で、逆に今まで見えていたものが見えなくなる、見えにくくなることなんてのもあります。
だから自分が見ているものが本質に近いのかそれとも遠いのかなんてものを判断することはできないと思われます。
最後の「そこで初めてモノの本質をみることができる」は、視点が広がりまくった結果だと考えています。
とりあえず美について考えます。
ななしさん
私よりも、よっぽど本質に近いところにいて、視野も広いのではないですか?
一部固定観念が崩れ始めていることもあるので、とりあえず自らの美醜を考えてみるのも悪くないんじゃないですか?
それが結論とはならないとはおもいますが。
あくまでも現在のことを。
1通目の方お返事ありがとうございます。
そうですね。
何かを見て美醜を決めるにあたって固定概念は必須です。
美醜の判断はその人の美醜の概念で決まるので、美しいと思う時、醜いと思う時の条件自体が固定概念になります。
なので美醜を決めるにあたって自動的に主観的になってしまうと思われます。
ななしさん
確かにそうかも知れません。
私は、自分の置かれた環境や、立場によって、考え方やものの捉え方が変わると思っていますが、それが固定観念を形成するのでは?と思っています。
そういう意味では、私の視野、視点は狭小なものだと思います。
それは私がマジョリティーの思考をもちあわせていないからだとは思いますが、だからといって自分に免罪符を与える理由にはならないでしょう。
それでも、美醜は、やはり、各々で決めなければならないと思います。
それは客観的にではなく、主観的に。
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