幼少期の愛情不足は大人になってしなえば過去の話として切り離せるんだと、今よりはましになれるんだと言い聞かせて生きてきた。
だが実際はどうだろう。私はどこにいっても何をしていても寂しさや悲しさ満たされない思いを抱えて生きている。
得意の絵だって回りは立派だとか凄いとか、努力しただとか君の苦労はわかるだとか慰めの言葉だってかけてくれる友人だって評価してくれる仲間だっているはずなのに、なぜ、私はそれを素直に受け取れないんだろう。
誰かに褒められるために絵を描いたのか認められたいために描いたのか、どれも違う絶対そうではないと言いきれる。きっと私は私自身に褒めてほしかったんだろう。
誰でもない評価も要らないお金だってほしくない何も要らない。ただただ親に愛されなかった自分が憎くて嫌いでどうしようもない癖にどうしても自分を自分自身に認めてほしかったと気づいた。
そのためのツールとして絵を選んでしまった。純粋な気持ちで絵と向き合えてない。評価してくれたのにその気持ちを受け取れないそんな自分がどうしようもなく嫌いだ。
謝って終わる話でもないそれで終わるのならなんて楽だったんだろうなんてねじまがってしまったんだろう。なんでだろう、あの楽しかったときの誰のものでもない絵をまた描きたいと思うのも歪んだ感情なのだろうか。私には何一つ正しさがわからなくなってしまった。
わかろうとする気力すら尽きた。
昔は親から愛情と言う名をつけた憎しみを受け取っていた、だから少しでもその不足分を補おうと自分を慰めていたはずなのにいつしか私自身でさえ私を責める者になっていたらしい。
あれほど嫌いだと思っていた親と同じになるなんて
もしも親が私に愛していると声をかけてくれたなら今の未来は変わったのだろうか?
その未来には今の友人がいるのだろうか、今私が努力したはずの絵は描いているのだろうか。
きっと全て違うんだろう絵も描いてなければ今の友人も居ないはず。過去が変わればと思ってしまうがそれは支えてくれた友人の気持ちだって砕いているとわかっているはずなのに、このむなしさは変わらない。でもこのむなしさ古傷を誰かに見せて悲しんでほしくもない。そうやって全部自分を責めて責めて責めて責めて責めて行き着く先はきっとこの世ではない場所に逝くのだろう。
慰めてほしいんじゃないただ理不尽な過去と理不尽なことにさえ自責の念を抱き傷つけた自分に怒っているだけ。あの時に嫌だと言えなかった自分にやつ当たっているにすぎない。
今居ない人に言ったって何かできるかといったらそれは違う。だから後悔しても落ち込んでも当人には自分の思いは伝えれるのなら
そうしたらきっと私は一人だって思わなかったんだろうか。相手にされなくてもそうだったと今より割りきれたんだろうか。
わかってる自分が変わらないとこの感情からは抜け出せない。今まで以上に苦しいのだろうけど誰かの手をかりて前を向く練習をするのも良いのかもしれない。過去は変えられないだろうが未来は今から描けばいいのだろうか。今までも真っ白なキャンバスに向かって来たんだから同じようにでも今度は人の手をかりながら描けば良いのかもしれない。そうしたら誰も傷付けなくてすむのだろうか。
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ななしさん
何かしら満たされない思いを抱え、それを作品という形にしている芸術家は、少なくないかもしれません。
子どものように無邪気に楽しむだけが、「純粋さ」ではないと思います。
自分自身と格闘しながら創り上げた作品が、他人の心を癒すことだってあるでしょう。
創作に限らず、あなたの辛い体験は、いつかどこかで誰かのために役立つかもしれません。
そんなふうに心の奥が、少しでも世の中とつながれば、寂しさや悲しみが薄れるかもしれないと思います。
ななしさん
私と似ています。
もっと親に、そのままを愛して欲しかったよね
? 今、私が代わりに言ってあげる。
そのままで、愛してる。
自分を大切にして。。
まず自分を癒やして、幼児期に満たされなかっ
たインナーチャイルドを抱きしめてあげて。。
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