\"差別\"について真剣に考えた。
が、どうにもならない読みにくいと思った。
気分を害す人が沢山出るだろう。
そもそもこんな話題自体、私も好んで上げたりしない。
まぁ独り言が聞こえた程度には、
私の考えも流れるかなぁなんてね。
なぜ人は差別をするのだろうか。
根本的な問題だが、虫嫌いな人がファーブルを理解できないのと似てるだろう。
例えばの話だが。
いかんせん、それは好みの問題だ。
好みの違いがあるのは私達が個体として意識の違いがある限り仕方のないことだ。
だが、ファーブル本人についてはどうだろうか。
例え虫を見るだけで吐き気を催す人も、彼の性格や信条、努力や他愛もない話をすれば、彼の昆虫採集に協力しようとは思わずとも彼の研究には関心が持てるかもしれない。
つまり、虫嫌いな人であっても、虫が大好きな(多分)ファーブルと仲良く出来る可能性は十分にあるのだ。
これを差別に当て嵌めよう。
人が人を差別をする理由、
それは、その人が自分の常識と大きく異なると感じているからではないかと思う。
害虫は誰もが嫌いというわけではない、というようなところか。
そこに悪意はなく、ただ「害虫は嫌われる」という常識として私達に存在する。
ただしこの\"常識\"というのも定義の難しいところではある。
ここでは、自分の概念や視野といった意味にしよう。
私達はその常識から外れたものを敬遠する癖がある。
それゆえ、見慣れない物事や違う常識に戸惑い、逃げ出すようになっているのだろう。
だが、例えば片腕がない人本人には片腕がないことが常識であって、回りからすればこれは無理だろうと思うようなこともやっつのけたりする。
逆に、健康体でありながら出来ないことは沢山ある。
(片腕がない人が健康体でないのかという質問は各自解決してもらう。そんなことを言ってはいない。)
だから、片腕がないからといって自分の常識と違う、と否定するには早いのだ。
そのためには常識を覆すことになるが、言うだけなら難しい事ではない。
「当たり前にしてしまえばいい」これだけだ。
常識にしてしまえば、片腕がないことすら\"個性\"として認識するようになる。
「片腕がない○○さん」は「癖毛の○○さん」と同じような意味になるということだ。
そこで私は考えた。
「差別のない社会を作ろう」というのは、逆に\"差別\"を強調してしまってるのではないかと。
確かにこのフレーズは、直接的で伝わりやすい。
反面、差別をなくそうと考えることで、差別について過敏になりやすくなるのではないかという考えだ。(「3分間キリンのことを考えるな」と言われたら「キリン」のことばかり頭に浮かんでしまうのと同じ原理かと思われます。)
よって、差別をなくそうとするあまり、本人を無視したお節介な手伝いになりかねない。
だから「差別をなくそう」ではなく「過ごしやすい社会」に変えたほうが良いと私は思う。
限定しない、誰もが暮らしやすい社会の確立。バリアフリーの考えの基本だ。
そのために国家が国民に呼び掛け、それに応えることが大切だと思う。
誰もが暮らしやすい、快適で心地よい生活を送るためには、全員のこびりついてしまった意識を変える必要がある。
そしてそれを意識せず行動に移せれば最高だと私は思っている。
それこそ、友人が困っていたら声をかけるように、必要なら手伝い、必要がなければ見守ったり、任せたり、そんな意識が重要になるのではないろうか。
それでこそ「誰もが快適に暮らす社会」の基盤である。
そんなことを色んな場所で発言しボコボコにされつつ、私自身意識や言い方を変え主張を続けているのですが、皆さんはどうでしょうか。
正直な意見を聞かせてください。
By:―――√tune,
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ななしさん
気分を害されたらすいません。
正直な意見、という話だったのでほんの少しだけ、揚げ足取りになるかもしれませんが。
ファーブルのくだりで、虫が嫌いなままでもファーブルと仲良く、という話がありましたね。この時、ファーブルと虫、というものがそれぞれ分けられて考えられていました。けれど実際にはそうはいきません。仲良くすればそこには虫が関わる話がでてきやすくなりますし、でてこなくとも虫の話がでてくるのでは、と人は思ってしまいます。その人とその人に強く関係するものは無関係ではいられません。
片腕がない人に例えるなら、『片腕がない』イコール『虫』、と考えてみてください。
確かにある程度仲良くする事はできるでしょう。けれど、少しのきっかけさえあればすぐにそれは壊れてしまいます。
虫が大嫌いなままでファーブルと仲良くする事、し続ける事はとても難しいのではないでしょうか。虫を好きにはならずともせめて無関心になるよう努力すべきなのでは、と思います。
虫が嫌いな事が個性であれば、黒人が嫌いなことも個性と言えます。差別の問題は個性をどこまで許すかの問題なのかもしれません。
稚拙な文と意見で不快にしてしまいましたらすいません。
ななしさん
差別とよく似た、区別というものがありますよね。区別はだいたい、物や人の見分けに使います。
区別した人間、区別された人間、がいたとします。
誰かがそれを、『差別』と言ったら??
『区別』だと思って使った『片腕のない〇〇さん』は、第三者が『差別』だと思ったら『差別』なのかな??
差別と区別の差が分からない。もしかすると、紙一重かもしれない。
だから私は、差別かどうかなんて当事者たちの気の持ちようかなって思いました。
国際的な差別の話になるとまた違うのでしょうか??
あなたが自分の考えを他人に話したとして、共感が得られたとします。でも、人それぞれの感覚や考え方なんて違うんだから、それは本物の共感じゃありません。ああ、こういう考え方もあるんだな、って参考にするくらいでいいと思います。まぁその為には一方的に自分が喋るんじゃなくて、他人の意見を聞かないとですね。長々失礼しました。
FROM,部活帰りダベりすぎて眠い高校生
ななしさん
私はこういう答えのない対話が大好きです(笑)
ので、私なりの意見を流しますね。ボコボコにされる覚悟で(´∀`)
私が思うに、
差別される所以というのは『二極的思考』からくるのだと思います。私は(主さんの例えからいうと)苦手な虫があってもさほど目くじら立てるタイプではありません。ただ『苦手』なだけです。苦手という言葉に「悪」意はありません。自分から見た物事のカテゴリーとしての『苦手』。
しかし、(私も含め)個人には強烈に「悪意」を持ってしまうものは大多数あるでしょう。
そのものを『悪意』を持って見てしまうから差別は産まれるのだと思います。
その逆は好意。アイドルやアーティストを熱狂的に好む方がいらっしゃるでしょう。そのように、物事を二つの箱に収めてしまうから、違うものが許せない、穢らわしい、切り離したい、排除したい。と思うわけです。(不謹慎ですが)戦争が良い例ですね。
人間は、自分の正義や好意を守るために一方を嫌悪するものです。自分の正義や、ファーブルの虫への愛が異常であればあるほど振り幅は大きくなります。
話が変わりますが
ついこの間、週刊少年ジャンプに連載していた「DEATHNOTE」という漫画はご存知でしょうか。
人を殺す道具であるDEATHNOTEを持ち、理想の世界を創ろうとする主人公と絶対的な法の正義を貫くライバルたちとの推理バトルを描いた漫画。主人公は(自分の正義を貫くため)ライバルを邪魔だと思い、ライバルは(自分の正義を貫くため)主人公を敵と認識し、死刑台に送ろうとします。
すこしオーバーに例題を挙げましたが、この様なことが『日常』に存在すると思うのです。
あいつが嫌い、あいつが好き、私が好き、私が嫌い。それが積み重なっていつか差別が生まれる。その行為自体は至極当然なのですが、残念ながら差別の要因になっている気はします。
…むなしい話ですが、差別やいじめは無くならない、と思ってしまうほど『日常』は悪意と好意に満ちています。
日常の延長は戦争であると思う程に。
主さんが言った『虫が嫌いでもファーブルの気持ちや人となりを理解すればいい』というのはとても素晴らしい事だと思いますし、悪意と好意に満ちた日常で、自身がマイノリティであると気づいてしまった者にはとても心強い御言葉です。
かく言う私も、電波だとか不思議ちゃんだとか言われた経験があります(笑)
最後に、ひとつ『ギフテッド』という言葉についてお話しさせてください。主さんの言う「より良い社会」について私が思うことです。
ギフテッド、とは『先天的に平均よりも顕著に高い能力を持っている人のこと』を意味します。いわゆる『(学術的)天才児』ですね。芸術的天才はタレンティッドというそうです。
この言葉を知ったのは、教科書等ではなくWikipediaでしたからまだ日本では馴染みのない言葉のようです。実際上ギフテッド教育が認められているのは欧米諸国が中心です。
(まあ、こんな話はいいんです。興味があれば是非調べてみてください(笑)
私が『ギフテッド』という言葉を知って感動したのは言葉の由来でした。
『ギフテッド(gifted)は、贈り物を意味するギフト(gift)が語源で、神あるいは天から与えられた資質、神経系の特質』。
打たれるべく存在する『出る杭
』ではなく、『gift』だという考え方。当時は鳥肌が立ち、大変感動しました。
ギフテッドという考え方と多面的な見方をしていけば、差別は無くなると思います。ただそれが「日常」という戦争の中にいると、難しいと思ってします。
だから主さんのファーブルのお話はとても素晴らしい事ですよ。
もしかしたら
ファーブル→多面的考え
に至るのかもしれませんね。
いつも楽しいお話を
ありがとうございます(笑)
tnueさんの宛メ、楽しみにしてます(´∀`)!
ななしさん
なぜ差別をするかについて。
自分に害を与える人とは関わりたくないですからね、
瞬時に人を外見でいい人か悪い人かを判断するのではないでしょうか
まとめれば、
「自己防衛本能」
というのが私の考えです。
ななしさん
差別とはおそらく自分もしくは自分が属するグループを護るために生き物のdnaに組み込まれた防衛本能だと思います。ところで最近「障害者」と言う言葉を使わない様にしようと考える人々が横行している様ですがあれは寧ろ自分の差別意識をオブラートに包んでいるだけなのではないかと言う気がします。自分たちの無力を言葉狩りによって弁護しているに過ぎないとは想いませんか?
ななしさん
<font color=#ff0000>投稿者さんからお返事きたよ</font><br>
お返事ありがとうございます。
どのお返事にも、なるほど、と頷きました。
私はかなり文章を纏めることが苦手で、うまく伝わらなかったら、と考えておりましたが、皆様私の意図を汲みお返事をしていただいて、大変感動しております。
全てのお返事に御返しをしたいところですが、かいつまんで、話します。
この\"差別\"という問題に関しては答えが出ることは難しいと思いながら、再三補足も兼ねてお返事いたします。
今回の件は、あくまで\"社会\"としての\"差別\"問題を話の重点とおいています。
個人の感覚まで考えると、それこそ十人十色、終わりの見えない話になります。
しかし個人を考えるためには、まず、社会環境が整ってこそだと私は思います。
全あっての一、と考えておりますので、悪しからず。
それから、ファーブルの話ですが…
確かに付き合いがあればお互いに趣味の話をすることが多くなり、嫌悪を抱くこともあるでしょう。ですが、配慮をすることは出来ます。
極力嫌がる話題を出さない、どうしてもと出されたときは出来る限り否定しない。等。
それに、ファーブルの話は虫だけではないと思うので、嫌悪を抱き離れるかどうかは、本人次第ですね。なんとも曖昧ですが…。
最後に、\"区別\"と\"差別\"ですが…
どちらも同じ意味を持っているため、一概に違うとは言い切れません。
しかし現代の社会的意味合いを考慮すると、
黒人を区別する→人種の中の一つとして分けること。
黒人を差別する→正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。
と意味が変わってきます。
つまり、現代社会では\"区別\"と\"差別\"は全く別物、ということになるかと思います。
(国語の世界では多少差はあれ同じ意味)
補足は以上です。
それから、「ギフテッド」という言葉を教えていただきありがとうございます。
とても素敵な言葉だと、私も感動しました。
これからも私なりに、色んな意見を見聞きし、すこしでも社会貢献になるよう努力します。
ありがとうございました。
By:―――√tune,
ななしさん
虫好きな人とは仲良くなれても、虫と仲良くするのは容易じゃないのでは…。
差別されている人はこの話でいうと、ファーブルではなく虫にあたるのではないでしょうか?
ただ虫だって人の役に立っていたり、巡り巡って関わりがあったりと一概に悪くはいえない部分があると思うので、そういう所を認めていけたら良いなぁと思います。
私は認め合う気持ちが大事だと考えています。
busy
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