自分が死んでも、悲しむ人がいないでほしい。
幼馴染は、たぶん泣いてしまう。小学生のころ、私なんかのために、私に見えないところで泣いてくれていたような人だから。
そういう人がいるのは幸せなことなのだろうけれど、今の自分には、そういう人の存在は自分が死んではいけない理由(言い訳ともいう)になってしまう。
不思議なことだが、「もう本当に駄目になったら死んでしまおう」とか、「すべてが嫌になったら、誰にも知られないように遠くまで行って、消えてしまおう」とか、破滅を最終手段として取ろうとすると、私はもう少し頑張ってみようと、かなり投げやりにだが思うことができる。
破滅に縋って生きるなんて、やっぱりちょっと変だが、それしかもう私が歩き続ける方法はない。
私は、私の人生に生きる価値はないと思うが、この世界には生きる価値はあると思う。
綺麗なものを見たい。未知を知りたい。生々しい生命力を感じたい。それら全部、満たしたい。
だから、生きたくないけど、まだ死ぬわけにはいかない。明日死んでしまいたけれど、まだ死ぬわけにはいかない。
それに対して私にできるのは、やっぱり破滅に縋るだけ。
「死なないで」は、私に「生きるな」と言っているようなものだ。
さぁ、私の死で悲しむ人がいない状態にしよう。
今すぐ誰もかれも縁を切ってしまおう。独りになろう。
...幼馴染の連絡先は消せなかった。彼に言われてしまった。「お前と遊びたい」
なんで私はこんなに幸せなのに、死にたいんだろう。
ごめんね、私は、死を見据えることでしか生きられない。私はきっと、君の前からもある日突然消えるんだ。だから君が私と過ごす時間はすごく空虚だよ。ごめんね、ごめん。謝るしかできない、意味ないのにね。
死の許容が生きる気力になる。それでしかもう歩けない。
私はまだ死ねない。だから、明日に死を見据えて生きる。生きるために、死を夢見る。死を夢見るのを躊躇させる存在は、私の生を脅かす。
幼馴染は、友達がたくさんできた。私は必要ない。彼は必要だと勘違いしている。
どうやって、いつ、彼の前から消えようか。
本当、なんだろうこの人生。馬鹿みたいで、笑える。小説の悲劇の主人公じゃねぇんだからさ。
生まれたくなかったな。
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ななしさん
私も死ぬと思うと希望がみえますね。
死が許容できるのはハッピーエンドを迎えられるので最高だと思います。
生きていけなくなれば死ぬだろうと思って
愉快に過ごせばいいと思います。
ただインド人的には
「生まれない」は努力しないと獲得できないものらしく
南無阿弥陀仏ぐらいは唱えておいたほうがいいなぁと思います。
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