この世でいちばん楽しいのは、内輪ノリだと思う。
誰かを排除し、わずかなひとたちの間でのみ通じる言語。
他者が聞いてもなんとも思わない文字の羅列が、輪の住人同士の会話に限り、とても面白く化ける。
これは自分の話だが、
2年ほど前、文化祭で映画を作ることになったうちのクラスは、当時委員長であった自分の器量不足ゆえに、
数人の有志が作る。他のクラスメイトは短い時間ガヤとして入り、クレジットに名前を載せるだけ。と、クラスの作品としてありながら、その実制作したのは少人数であった。
まぁ、制作陣も自分の友人で自分はそれを、まとまらないクラスに困り果てた自分への彼らの優しさだと思っているが。
そして、映画を作る過程で、
「そうかもしれないね」
「それ以外考えられないしね」
の流れが、なぜか制作陣の友人たちにハマった。
以来、文化祭が終わっても、その流れは度々用いられ、特に面白くもないその流れで自分たちは大笑いした。
そう、これを読んでいるひとには何が面白いのかさっぱりだろう。自分にもさっぱりだ。
でもとてつもなく笑えるし面白いのである。
乱用のせいかたまに内輪以外で引用しそうになる。
そういった経験、ないだろうか。
それを自分は、内輪ノリの楽しさだと認識している。
自分たちは、排他的な空間を作りたがった。
こんな例がある。
よく話す男女混合5人組のうち、1人が所属していないLINEグループがあった。
女子でも5人組があったが、4人が所属するLINEグループがあり、自分はそこに入っていなかった。
いじめと言うわけでもなく、なんだろう、自分や先の男女混合のうちの所属していない1人は、単に間が悪かったのだ、と思う。
そしてそのまま、誰も入れることをしないまま、2年が経過した。
(2年目の冬頃、自分は連絡先を全て消したためその後のことは知らない)
今考えると、いじめという体では決してないぶんタチが悪いと思うし、恐ろしい空間だと思う。
自分があの空間を離れたから分かったことだが。
希少価値が高いぶん楽しいのだろうか。
特別感が楽しいのだろうか。
自分は、パロディやオマージュと言われるそれにも同様の面白さがあると踏んでいる。
元ネタを知っているから楽しめる、知らなければ大して面白くもないが、知っている者の特権として面白いと感じられる。
そういう感情が働いて面白いと感じるのだと、自分は思っている。
みんな仲良く、とはいかないのだ、と思う。
誰かを排除する感覚をもって自分たちはそれらを楽しいと感じるのだ。
笑いは、最大の防御とも言える攻撃に過ぎないのである。
ひとをイジるという体で小馬鹿にして大笑いすることを攻撃と言わずになんと言うのか。
私が最近なるほどと唸った言葉は、共同体はその定義からして異物の排斥によってのみ成立する、というものです。
俺ら、私ら、という概念が成立するということは、定義からいって、俺らじゃない奴ら、私らじゃない奴らと自分たちを区別できないといけません。その基準こそが排除という概念です。内輪ネタで受けることができるという基準こそが、それで笑えない人間を排除する機能を持っており、だからこそ特別な他者としての仲間、おなじ共同体の人間が定義されるということかと思います。
もし排除という機能がない集団があったら、それはその集団と別の集団の区別を安定的に維持させられないので、安定な共同体ではありえないわけです。
人をいじる、攻撃するという行為は、自分たちの仲間を仲間として認識する、あるいは守るという行為の表裏一体なのでしょう。現代では、他人を攻撃する行為は批判の対象になります。逆に言うとそれは、社会の大多数が所属する大きな共同体が消滅し、自分ひとりしかいない、個人という共同体の最小単位まで我々が分断されているということかと思います。
あなたが、内輪ノリや排除に対して、うんざりしつつもその魅力を認めざるをえないというのはあなたが、本質を見極めているからなのでしょうね。
難しいですが、自分の最適な共同体を見つけ、多少の不正や残酷さには目をつむるというのが賢い生き方になりそうですね。駄文ですみませんが。