共感出来なくなる。
昔はそうだった。昔は自分もそうだった。
少しずつあの時の自分では、なくなっていく。
誰かに差し伸べたい言葉は、少しずつ行き場を失って、心の奥底に沈んでいく。
助けたい、何か力になりたい、そう思っても、自分自身を否定する。
「それは?その言葉は?人の解釈は?」
自信がないと言うよりも。
自分が何をしたいのか、解らないと言うよりも。
重みに引かれて落ちてゆく。
誰彼の視線を気にして、自分の気持ちを大事にして。
誰彼の目線を気にして、自分の気持ちを大事にして。
どちらも大切な事なのに、どうして上手くいかないんだろう。
どうして言葉がつっかえるんだろう。
理由にする意味もなく、心が八つ裂きだ。
どこを見て良いのかも解らず、宛てもなく視界が彷徨う。
バラバラな心を取り戻すために。
そうして、ちぐはぐな毎日がやってくる。
誰にも見えず、自分に見えず、場所を彷徨う。
何かにぶつかっては、その感触を自分だと思い込み、思い込んでは飲み込んで。
…そんなのもう、やめにしないか?
人は過ぎ去っていく。
知らなかった過去を、浅はかだと後悔していく。
いくつ歳を重ねても、幾つもの経験を重ねても、今、現在が、一番未経験だ。
先の事など曖昧で、誰にも解らない。
そうだろう?
どこにそんな視線がある。誰の目がある。
お前の目だ。自分自身の目だよ。
誰彼の視線を気にして、自分を大事にして。
そんな視線は、自分自身のものだ。
自分自身の視界だ。
俺は見ているぞ。
うずくまった闇の中を、俺は見ているぞ。
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小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください
誰かの目線を気にするとなれば、その目線を重視する己の事を、尊重している訳だ。
だから、人の気持ちが解らない自分が、己の視野に映し出される。
正確に言葉にしようとすれば、人の気持ちが解らない、とは「人の気持ちを解るか解らないかも判別できない」だ。
であれば、共感とは一体どういう事なのだろうか?
他人の考えや行動、気持ちに対して、「自分と同じである、と見なし、感じ入る事」なのだろうか。
己と他を分けつつある。
そこで、共感という、自他の曖昧な感覚の、根本が揺らいでいる。
安心感とは?
側に立つような…仲間意識のような…、その「同感」、「解った・解ってくれた」という感覚とは?
何にでも、理由を付けようと思えば、付ける事は出来る。
今知り得ている情報からしか、その理由を付ける事が出来ない…つまり、「知らない事は知らない」ので、未知の場合、付けた理由が確かでない可能性は理解している。
が、理由を付けた事によって、余程でなければ、事実との「差」が産まれる。
その差によって、事実がどうかを認識するきっかけが出来る事もある。(厄介な事もあるにはあるが)
少なくとも、解ったのは、今の俺には抱けないか、薄い事だ。
安心できない事を知った…、解らないという事を知った…、つまりはそういう考え方や価値観、認識となり、そこに重点がある。
だから優先度が低いのかもしれないという事と、もともと「理解出来ず勘違いしてしまう」という事を気にしている為、己を律しておきたいが故だろう。
今もう共感できない事は仕方がないし、出来ないものは出来ない。
あちらがどう思うかは、あちら側にしか出来ない。
どう思われるかもしれない。ああ思ったかもしれない。
不安なものは不安だし、取り除くことも出来ないが、不安だからといって潰れる事は、現時点ではもうなくなった。
(体の不調や思考回路の変化によって起こる可能性はある)
苦しむ時は苦しむし、死ぬ時は死ぬ。
関わる以上、単なる他人事では済ます事など出来ないが、ただ不安も、恐怖も、悲しみも、己への怒りや戸惑いも、受け止める事しか出来ない。
結果も然りだ。
後悔か。
もう少しこの危機感センサーのようなものが、まともに動いてくれればとも思う。
「ある」というだけで、あまり己の感覚とは合っていない。
言葉がつっかえる要因は、何度でも目にするだろう。
それは…、人が人である以上、どうしようもないものなのかもしれない。
だが、少なくとも、どちらともを優先する方法はあり、それによって心は八つ裂きにならなくなる。
つっかえた摩擦によっては、光が生まれ、光は仄かに闇を照らし、進む手掛かりにも繋がる。
未だ闇は深いままで、この小瓶は、整頓できない気持ちでメチャクチャだ。
だが、仄かに導があるからこそ、導となる光に顔を向けるからこそ、闇は立ち上がり、自分の視界から外れる。
今できる事をするしかないのだと、闇は立ち上がる。
眩い光は目が潰れ、見通せない闇は目が曇る。
難儀なものだ。
うずくまった闇の中を、見続けなければ。
忘れてはいけないと、そう願うからこそ。
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