災害を被ってしまった地域の人たちはその考えから行けば、死者やけが人、路頭に迷ってしまう人間や弱者の重度化を増幅させるだけです。「社会を作るのに自分は参加しなくて良い」というのも意見かもしれません。それが正しくなった価値観で社会が傾けば一円たりとも募金や寄付を災害地域を見ても届けようとは思わないという人も世の中の多数の幸福になり得るということになりますよね。例えば中国の一人っ子政策、政府が人口コントロールのために行っていますしその影には人身売買がありますが、これが世界の大多数の幸せになったら、兄弟を産みたい親は救われません。あなたが、民間人に助けてもらおうなんて思わないし、そんなことは損をするだけだと考えているなら、では一体社会の最大幸福というものはどのように位置づけていくのが人間が幸福になることの可能性を秘めた最大多数の幸福になっていくのでしょう。
ちなみに最大多数の幸福というのは40人が死んでも50人を助けられれば良いというとても犠牲的な面を持つ考え方です。犠牲というものに意味がないのだとすれば、民主主義の最大多数の幸福に反対しなければなりませんね。
私はちなみに、反対派です。弱者の幸せがなければ社会の基盤は作られないと思うからです。犠牲は最小限で良いという考え方ですが私は困っている人に助けが必要だと気がついたときは助けます。気がつかない社会ではありますが・・・
ただ感情で判断しないで、あなたの犠牲者に対する社会的な考えを大まかでも良いので感じてみられたら良いかと思います。なぜ、人は弱者に対して助けるという考えを持つのか。それは最大多数の幸福という考え方からなのか、弱者のために犠牲者は少なくていいという考えからなのか。こんな社会の見方もありますよという参考になれば嬉しいです。
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