どれだけ目を背けたくても、これが真実だ。
・いじめはなくならない。本気でいじめをなくそうと思うならまず学校をなくすことを考えるべき。人間が集団になったら絶対に悪くなる。それができないなら学校をいじめよりも楽しい場所にする努力をすべき。残念ながら、いじめは「楽しい」ものであるし、いじめをしている当事者にとっては、「学校」という退屈極まりない不幸な場所における貴重な娯楽である。あるいは、学校が「みんなで」とか「力をあわせて」とか、一つにまとまらないものを無理やりまとめるからおかしくなる。あらゆる学校行事には何の意味もない。ただただ「大人」の満足のためだけ。学校にかかわる人間は、自分が生徒を不幸にしている自覚を持ってほしい。
・子供は生まれないほうが幸せである。そもそも、人間という未熟な生き物が親になることの不幸は測り知れない。本当に子どものことを思うなら、まずはこんな世界に生んでしまったことを謝罪すべき。親はその自覚が足りない。子供は望んで生まれてきたのではない。ただただ親の都合で人生という地獄に放り込まれただけだ。否、「親」の都合ですらない。自らの性的快楽を求める「男と女」の都合だ。結局、子供が生まれるのなんて、男と女の身勝手な行いの結果でしかない。
・物語のような奇跡が起きない限り、もうこの世界の人間は幸せになれない。人間は文明を維持するには不幸になりすぎた。これからは奪い合いの時代が来る。そうでなくとも人々の心はやせ細り、優しさが「ダサい」時代だ。ノブレス・オブリージュは流行らないし、助け合いなんて都市伝説だ。結局、今この時代で自由に生きられる人間なんて一握りだ。何かしらの卓越した魅力を持つ人間だけだ。生きているだけで多くのファンがついてくるような、まさに選ばれた人間だけが幸せになれる時代だ。ハッキリ言おう。この世界のほとんどの人間は生きていないほうがずっと幸せだ。
・歪んだ願望は受け入れてやらないと治まらない。迷惑な人間はすべからく不幸である。他人を攻撃する人間はすべからく不幸であり、他人を自分と同じくらいの絶望に引きずり落さないと気が済まないのだ。けれど、そういう「おかしい奴」は誰にも受け入れられない。彼らは、当たり前のように肯定されて育ってきた一般的な人間とは使っている言語が違うのである。けれど、一般的な人間たちは自分たちが多数派だから、少数派の人間がこちらに合わせることを強要する。その傲慢さが、「おかしい奴」の怒りを買うのだ。「おかしい奴」は憤っている。そして絶望している。けれど一般的な人間が望むのは「おかしい奴」の排除である。ホロコースト施設でも作ればいいのだろうか。しかし「おかしい奴」からすれば、ガス室に入るべきは一般的な人間である。両者の断絶は深く、救いようがない。「おかしい奴」にかける優しさがこの世界にはない。
全生命が一瞬で同時に消滅することが、もっとも合理的で幸福だとしか思えない。