久しぶりにお世話になります。
なぜ久しぶりなんだろう。と言っても2ヶ月
くらいだけれど。自分が今まで投稿した文を
読んで誰?と思うくらいちょっと感動したり
励まされたりした。こういうことなんだね
宛名のない手紙が存在することは。
「いるか」というアプリがあってTwitterくらい
の短い文をちょこちょこ書くことで凌いでいた
つもりだったがとうとう洪水が起き始めたので
お手紙を書くたくなった。出家したい心境。
愚かなんだろうね。自分の好きなことを
伸ばして人様の役に立つという発想は底を
尽きてしまいました。自分でも感じる。
どうしようもないほど辛いって心は言って
いるのにそう簡単に手離すわけには行かないよ
ここまでやって来たんだから意地でもしがみ
つかないと示しがつかない。謙虚とか素直とか
どんどん失われていて、孤独に沈んで人と交流
するのが億劫になって。自尊心とか自己肯定感
がボロボロになって。焦りだけがずっとある。
何か結果を残さなきゃ。その方向性が未だに
掴めないこと。多分誰かのためにっていう心が
ないからだと思う。ないというか決定的に
間違っている部分がある。心を開くこと。
閉じている。誰かの会話に色を足すくらいの
関わりはできるんだけどデッサンの部分に
立ち入ることを拒絶している。誰かと目を
合わせるのが怖いというのは深刻な気がする。
確かにとにかく色々やってみようと思って
新しいことに挑戦している、その課題に
追われて余裕がなくなっているというのは
あるかもしれない。目が上手く笑えない、
下まぶたがピクピクする。体にも無理は
出ている。睡眠がきちんと取れない日も
増えた。でも忙しい人はゴマンといる。
甘え、弱さなんだろうと思っている。ただ
周りとの交流を拒絶してしまうのは危惧して
いる。葛藤。ワガママを言いたい。もう
こんなことやりたくない、全部投げ出したい
って。その弱音を他人に漏らすのが嫌だから
避けてしまうのかも。歌に逃げて。だからと
言ってどうしたらいいんだろう。逃げるのは
最善ではない気がする。現状に不満がある時に
傲慢になる自分を制して謙虚、素直を実行する
ことが私にできる唯一のことのような気もする。
謙虚というのは必要な分だけという感じ。だから
蔑むわけでも褒めるわけでもない。微笑む。
今できる精一杯のこと。目が笑えないこと、
言葉だけで交流するわけではないので周りには
迷惑をかけているだろう。あとは毎日深く長く
呼吸する時間を取って心を落ち着けるだけ。
少し前は何か掴めたと思ったんだけどな。
冷静になれば死ぬまでに私が一番大切だと思う
「孤独」との向き合いをしているのは確かだ。
諸行無常。諸法無我。犀角独歩。智慧。慈悲。
お釈迦様の教えが今心に響いてくる。東洋の
思想は初めから完成しているとどこかに書いて
あった。科学は確かに分かりやすい。言葉で
論理的に説明されている。ただ常に未完成なの
だろう。近付いているように見えて。言葉で
説明するという枠を超えない限り真理には
辿り着けない。「私」を超えないから。
私という感覚は見る私と見られる私に自動的に
分かれる。見る私が見られる私に指令を出し、
思考や感情を抱く。花には「私」がない。
あるがままとは何か。見る、見られるに分かれる
以前の私である。赤ちゃんのような。人間は
あるがままの状態で生まれてくるが次第に自我が
芽生え、見る、見られるの間で葛藤し苦しむ。
それを執着というのだろう。では一体どう生きたら
いいのか。見る、見られるをさらに俯瞰する。
第三の私を持つこと。そんなことで苦しみは
消えるのだろうか。今全てを投げ出して楽に
なりたいと思う。そんなだらしない自分では
いけない、何とか手を打たなければと焦る。
葛藤する。それがどうにも苦しい。その綱引きを
上から俯瞰する。俯瞰する私は何者だろうか。
日本語しか知らないやはり私なのだろう。
私はあるがままでいたくとも、やはり花には
なれない。赤ちゃんにも戻れない。第三の
視点を持ちその視線をどこに向けるか。それを
模索することしかできないのかもしれない。
恐ろしいほど長文になってしまった。まだまだ
掘り出せそうな気分。ある意味今日は第二の
私の誕生日だ。難産でしたな。
おそらくこれからもっと広い場所へ目を向けて
行くんだと思う。とりあえず今持っているもの
を使ってどこへ向かうのか。旅は続く。