理解することに執着しない。
理解しようとするから無理がある。
やがて破綻する。
相手のことを理解しようとする姿勢は尊いのだけど。
それでも。
たとえどんなに親しい人であっても、人それぞれが違うから、理解しようとすればするほど大きなストレスを生むことにもなる。
理解しようとするよりも、ただただ、受け入れるのみ。
自分自身が、受け入れる器を育てていくんです。
茶碗のような器ではすぐに溢れてしまうけど、水瓶くらいの器を自分が持つことができれば
、何でもOKということになってくることだろう。
こう書くと
「じゃあ相手のことは、何でも受け入れなくてはいけないのか?」
と問われそうだけど、そうじゃない。
話し合って、思いやりから互いが近づくことができればベスト。
それができなければ、自分が受け入れられないことを放り込める器を育てること。
そしてそれさえも無理ならば、離れるという選択肢も存在する。
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ななしさん
長文です。器を厚くするのは良いとは思う。だが理解が100パーセント共感で固められても、それは理解じゃなくただの共感であるよね。
相手が自分に対して何をしてほしいのかを察してほしいと考える人に対して何故口があるのに言葉にせず態度で分からせようとするのかなと疑問がわく。態度だけでは言葉にするリスクを取らずに察してよってのは違う気がする。それって逃げ道をいざという時に確保したいから言葉に出そうとしないのかなとさえ思う。
本心では理解していないのに相手の意思を受け入れることで主さんは相手から良く思われたいのかなと思うけど、ただ理解してないだろうなと相手が主さんに対して思っているのに主さんが理解していないのに、受け入れるよ〜って態度を出していたらますます相手は主さんに対して疑心しか湧かんと思うんだ。
相手はただ共感してほしいわけでも、分かるよって言われたいわけでもなかったりする。分からないのに、機嫌を損ねたくないからって良い人気取りしているほうが相手からしたら失礼に値してしまうのではないかなと私は思う。昔、「嫌われる勇気」というものを私は目にした。これって好かれようとするよりも難しいことで、本当に心が強い人が成せることかなと思った。よく、相手に好かれないなら嫌われたほうがマシだ!無関心でいられるぐらいなら嫌われて記憶にでも残ってしまえ!なんて考えに陥ってしまう人もいるかと思うですが、それに似た感情を昔は私も抱きました。あくまでこれは自暴自棄になっているだけですから心は強かったわけではありません。とにかく何かしらの決断をする時に、相手から離れたりするのも一つの手段ではあるけれど物理的には離れても心にはわだかまりが残ってしまったり、、。結果的に考えるのなら、やはり話すしか解決策は無かったりするのかなと。いくら人を受け入れる器を厚くしたって、いずれは自分に限界が来るのではないかと心配だな。いい意味でスッキリしたいなら向き合わないと駄目なんかなって。
でもさ一番厄介なのは一人が向き合う気無かったって時。もうこれはさ、お互い向き合わないで沈黙の如く冷戦状態だね。
こうなったらもうその問題に直面せずにフェードアウトで良いんでは?と思うよ悲しいけどもね。
人の悲しいや、辛いって感情はやはりその本人にしか知り得ないことで私達がその人にしか分からない悲しみの感情を理解するということは無理なのだから、寄り添うことしか結果的には出来ないものであると思う。
それでも救われる人の心が実在するのなら、寄り添うことって大切なんだなと、そう感じました。
おっしゃる通りだと思いました。
理解するって、私にとっては、あなたはそうなんだね、私はこうです、と線引きすることかな。
共感と理解は違うと思ってる。
でも世の中には共感してこそ理解だと思う人もいるみたいで、そこはそれこそ、あなたはそうなのですね、としか言えない。
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