モノの見え方が
変わっていくのだろうと
なんとなくですが
思いました。
せつなくみえた
だれかの横顔も
いま思えば
その人はそうしたかったから
していたまでで
そこに、ストーリーを感じて
庇護してしまうのは
いま思えば安易だったなぁと思います。
その時なりに、わたしは精一杯で
だから、振り返ってみても
混沌時も含め
なんとも言えないところはあるのだけど
すべて、どんな理由であれ
わたしもあなたも、だれもが
それぞれの中で
そうしたかったらそうしていた。
きっと、それだけのことなのだろうと思いました。
今日、小学校低学年くらいの子が
おかあさんに手を引かれ歩いていました。
小さい背丈のその子でさえ
喜怒哀楽、なにを感じてもいいし
感じなくちゃ、ヤバいです。
代替品で埋め尽くし
埋まる日は来ないから
吐き出しては、また入れる。
破綻と、ごまかしの日々は
なるべくないに越した事はない。
せつないも、はずかしいも
きまずいも、震える思いも
大人も子供も、あって、いいのです。
もしも、生きづらいと言うのなら
削ぎ落す術もあるので
生きやすそうに生きているだれかを見たら
尋ねてみるのも一考。
言動より、行動。
ガン見しているだけで
その視線の先を知るだけで
なにかのヒント、得ることもあります。
つれづれ小瓶でした!