そこにはたしかに確執があった。
過保護だった母。
やることなすこと全て把握していないといけないような。
密かに書いていた日記。
大事なところに線を引いた教科書。
落書き跡の残る授業用ノート。
不要になったのでゴミ箱に丸めて捨てたテスト日程のプリントや一時的なメモ代わりの裏紙。
クラスの子から貰った手紙や交わした交換ノート。
すべて漁って読まれていたのに気づくのは中学生になってからだった。
友達と遊ぶときは「誰と」「どこで」「なにをするか」を、遊んでいる人数が変わったり遊ぶ内容が変わるたびに連絡することを義務づけられていた。
そして気に入らない相手が一緒だったりするとわかると「今すぐ帰ってきなさい」と言われ、自分も自分で嘘がバレたときが何より怖かったので嘘もつけなかった。
当時小中学生が携帯を持っているような時期ではなかったので、公衆電話を探したり友達の家の電話を借りたりして。
高校生になり携帯を持たされると、遊んでいる友達の報告は写真つきのメールにて行うようになった。
小中学生の頃の友達には母のことで散々引かれていたことは分かっていたので、「いやあ、写メっちゃうのが癖って言うか?(笑)」と誤魔化しながら明るいムードで写真を撮るようにしていた。
…ら、「友達に満面の笑みを向けていることが気に入らない」と言われるようになり、あわやその友達たちとも関係を切るよう命令される寸前までいったので、あまり笑わないようにするか、そもそも自分を写さないようにした。
部屋は週に一回点検された。
母の知らないものがないか。報告のない事柄はないか。
見覚えのない顔や名前の友達を勝手に作った痕跡はないか。
押し入れから引き出しから全部ひっくり返して点検する光景は、小学生から高校生までずっと続いた。
機械音痴で、メールと電話以外の機能をチェックできないのは正直助かっていた。
この頃たぶん宛メを知ったのだと思う。
何通も何通も取り留めのない愚痴を流した。
反抗期なんて反抗できる気がしなかったので、結局来ていない。
転機は就職活動の時。
小学生の時から目指していた業界の企業に就職したくて、だいぶ揉めることを覚悟した上で、すでに書いたエントリーシートを見せながらここに就職したいと報告した。
母は目が点になった様子でしばらくこちらを見て、たしか7時間ほど、外が真っ暗になるまで電気もつけずお互いに黙ったまま向かい合った。
それから「行きたいところに行けばいいと思う」と一言吐き出して、母が鍋に湯を沸かしてインスタント麺を作り始めたのはよく覚えている。
就職して引っ越すときも、一言もごねられなかった。
むしろ梱包を手伝ってくれたり、こちらのつたない畳み方の服を畳み直しながらダンボールに詰めてくれた。
そして今、引っ越してから数年経つ。
三日に一度程度連絡している。
私から仕事の愚痴だったり、母から庭にいる野良猫の話だったり。
ただの親子のようだ。
私の十代後半までに残る記憶の中の母が全てなかったかのように。
母が何を思ってああしていたのか、
私の就職について何を感じたのか、
いま何を考えているのか、よくわからないけれど、
わからないままに、ほどけない結び目ができたままに、解決してしまった。
そういう解決法も、きっと正しいか正しくないかと言えば、展開的におかしいかおかしくないかと言えば、正しくないしおかしいと言う人が多くなるのだろうけど、私は納得できない結び目に納得して生きている。