なんとなく書いてみるので、脈絡がおかしくなると思います。ご注意を。
根拠の話ではないけれど、自然に溢れてきた気持ちって根源的なものだから、言葉とかじゃなく「わかる」んじゃないかなあ。
で、テレビでとやかく言われる人がどうだとかのつもりじゃなく、そういう「わかる」感受性の高い人がいるってことじゃないかなーと思う。
話逸れるけど、「動物の言葉」ってのは人間の為の便宜上じゃね?
…って感じに、自分の中で溢れてきたものと、外からやってきたものの両方を受け止めて、その時その時の価値観を持った自分自身で判断していけばいいんじゃないかな。
根拠を知りたいと思ったなら、聞いて真実がわかるとも言えないが、何はともあれ聞いてみるのがいい。考えてみるのがいい。
考えてもわからなかったっていうなら、その時はそれが答えだ。
根拠のねどころは各々の自分自身。
けれど、自分の思ったことを信じ過ぎて、盲信とか狂信とか言われるくらいになってしまうのはいけないと思う。
自分に対しても相手に対しても、信じ過ぎても疑い過ぎてもいけない。突き詰めれば、信じることにも疑うことにも、それと言えるような確かな根拠があるとは思えないから。
だから、強いて言うなら、信じる事と信じない事、疑う事と疑わない事、どっちつかずの気持ちとはっきりしてる気持ちと。
そういう、自分も含めた誰に対しても知っている面と知らない面の、余白を含んだ全てがある事をわかって、そのわかっておく自分を信じてみる「つもり」でいいんじゃないかと思って生きてま〜す。
…間違えることだってあるし。
信じるっつったって、よくわかんねーしさ。
「動物の言葉がわかる唯一の人間」だなんて触れ込みを、何にも違和感を感じる事なく言えるのが信じてる事だなんて言うなら、俺は何でもかんでも信じたくねーしなー。
もっと沢山動物の言葉がわかる奴等がいるかもしれないだろ!とか。
疑い出せばきりがない。ただ、現実にある以上、事実はある。(言葉や映像加工などの脚色を抜きにして)
逆に、信じれば全てにおいてハッピーというわけでもなく、疑う事と同じように、信じる事にも信じるなりの落とし穴がある。(良いことに繋がることもあるが、一例として自分がそれを信じている事に気がつかない事)
はっきり言ってしまえば、どんな事だって考えようでは、どれだけでも限りなく、疑う事も信じる事も出来る。疑って、信じて良かったと思うこともあれば、疲れて嫌になったりもする。
…思えば、疑うっていうのは、沸き上がる疑念に自分を傾けてるって事か。信じるというと、その逆か、いや沸き上がる疑念すらないのか?
どうなんだろうな。信じるも疑うも同じ土俵のことだから、表れている形態に違いがあるだけのような気がする。
そう考えると何を信じるかというより、疑おうとしているかしていないか、信じようとしているかしていないか、相手込みでの自分が大事なのかなと思う。
だから、信じておく「つもり」って言った感じで、自分の感覚を知りつつ、かつ知っていくのがいいんじゃないかと思ってやっています。
もしかしたら〜、そうやっていけば〜、俺にだって〜、動物の言葉も〜、わかる時が来るんじゃないかと思いまして〜。
…というのはジョークですが、多く見積もって三分の一ぐらいは本気でーす。
では、長い乱文、失礼いたしました。