私は話すのが上手です。
友達がたくさんいます。
誰かを笑顔にすることが得意です。
でもいつでも、相手のことばかり考えていました。
今、楽しい時間になっているかな?
嫌な思いをさせていないかな。
もしかしたら私は、人と話すのが上手だったのではなく、失敗しないようにひたすら気をつけていただけ、だったのかもしれません。
「〇〇ちゃんはおかねもちだもんね」
小学生の頃。
ことあるごとにこの言葉を私に投げる友達がいました。
当時は幼かったので、どんな反応をすればわからなかったのですが思い返すと、私は嫌だったようです。
お金持ちが事実かどうかは今の私にとってはもうどうでもいいことです。
ただ、私の一部分だけを切り取って、それが私の全てだと思い込んでるその子への怒りがありました。
私のことを見ようとしていないその子が憎らしかったです。
高校生になって友人の身内に不幸があったようです。
その子はそれを話したことがなく、ある日教えてくれるタイミングがありました。
私は、選ばれませんでした。
彼女は3人の中でもう1人を連れて、私は少し離れて話していたのを聞きました。
理由は分かりません。
不幸な人のように振る舞っておけばもしかしたら話してくれたかもしれない。
でも誰かとの関係を築くのに不幸の証明が必要な世界は嫌だ。
そうして私は他者を決めつけることを怖がり、私だけは決めつけずに見ようとしました。
よく観察して、「知ろうとする」ことをやめないように。
相手をよく見ているうちに、その人は何が好きで、何が嫌なのか考えるようになりました。
そして、自分でも気付かぬうちに、私は間違えないことに焦点を当てるようになりました。
私は嫌なことを言わないし、あなたを否定しない理想的な返答ができる。
会話を相手主体のものにしてしまっていました。
ある日、先輩と話していて「あなたは苦しそうだ」と言われました。
続けて、「周りを気にしすぎているんじゃないか。
まずは自分だけの趣味や好きな物を探してみてほしい」と。
勧められたことはやるのが「正解」なので、考えてみました。
周りに好きな人もいないし、いま流行っているわけでもない歌手を見つけて、その人の曲を長い時間聴いてみました。
初めて、私が存在したような気がしました。
厳密に言えば久々に。
その感覚はとても心地よかったです。
完璧な会話を目指していた私には、自分の会話にプライドが芽生えていました。
そのため苦手な人には1秒たりとも私の完璧な言葉を渡したくないと思っていたのです。
いま思えば、一番人を決めつけていたのは私でした。
自分を見つけた私は、苦手な人にも自然に接することになります。
何もかも、それでいいのでした。
相手が誰であっても楽しい時間を過ごせるようになったのです。
人は他者を理解しきれないのかもしれません。
見えないところまで誰かを理解することはできないし、相手も私を全部知ることはできません。
私を知っているのは、知りうるのは結局のところ私だけなのでした。
ある人から嫌われることもあるかもしれません。
ですが、誰からも嫌われないために自分を消す必要は全くないと思います。
だって気にしていたって、気にしていなくたって、誰からも嫌われないこと、誰も傷つけないことはできないのだから。
完璧を目指していたから。今だからこそわかることです。
いま、私は毎日が楽しいです。
初めての人の前でも昔からの友人の前でも、本気で笑うことができる。
今の私があるのは、昔の自分があるからです。
他でもない私が傷ついて、人の目を気にして、自分を失ったから今があります。
私は過去を後悔していません。
昔の自分に会えるのだとしたら言いたいことがあります。
「君は幸せになるよ。
君は大丈夫。
そのまま、がむしゃらに走って走って走り続ければ必ず私に辿り着けるよ。」
誰も悩んでいないことかもしれないけど、私は悩んで良かった。
世界は肯定も否定も与えることはありません。ずっと黙ったまま。
だからこそ私は好きな音楽を聴いて、たくさん笑って、人生を歩んでいける。
世界は何も言わないのだから、私の人生は私が決めていいんです。
人生の主人公は、私でした。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです