最近自分の中で、
「自己犠牲」に生きるか、「自己中心」で生きるかに迷っている。
というのも自分の中で「正義」「愛」とは何か、「自己犠牲」とはといった定義がずっと揺れている。
きっかけとしては卒業後の友人関係だ。
いろいろ面倒事や孤独を経験したが、
最後の学校での友人関係には恵まれた。
自身がコミュニケーション力を磨き、顔を磨き、ファッションを磨き、
様々磨いたゆえの結果だと思う。
「人は話を聞いてもらいたい生き物だ」
なので自分は相手の話を聞くことをメインに立ち回った。
否定はせず基本肯定、たまのオーバーリアクション、
話しを広げるいろんな質問、体の向き目線、、、
これらすべて行っていた結果、すごく頼りにされたし周りに人ができた。
友達ができた。
友人関係で困っていた私にとって救いとなった、支えとなった。
友人ができたことが心の底から純粋に嬉しかった。
ただ自分も人間だ。
「自分の話も聞いてほしい」
「もっと自分にも質問してほしい」
「大事にしてほしい」
そういう欲はあった。
それに自分が相手に良く接するのは、
これらの自己欲求の裏返しなのではと感じることがあった。
ただ自己犠牲の精神や昔から相手のためになりたいといった
ふわっとした感情や理想、夢があったので堪えた。
それで相手のためになるのなら、、、と考えるようにしていた。
自己の欲求を捨てるようにした。「雑に扱われてもいい」と。
ただ前述したとおり最近この思考が揺れている。
卒業後の話だ、
相手から自分を誘うような連絡が少ない。
たまにはあるが、、、自分から誘うほうが多い。
自分から誘ってもドタキャンされることも少々...理由もなしに。
異性の友達が多いのでその辺も関係しているだろう、
日本人はシャイが多い、自分から誘えない、、、それもあるだろう。
ただ学生生活中、あそこまで会話して仲良くなったと思っていたのに
卒業して生活や環境が安定してからは、
こうも「雑」に扱われるのかと...すごく思う。
実際にどういう経緯か、詳細を伝えることは難しいが、
友達からは「都合の良い人間」としか思われていなかったのだと感じる。
そりゃそうだ。
(自分からこういうのはよくないが...
お墨付きをもらったので情報として書かせていただきます。)
自分はイケメン、ファッションセンスもよくて、課題も手伝ってくれる。
成績も優秀だった。ナイスガイなんだと。
そんな人が自分の話を聞いてくれる。
言わなくても面倒事引き受けてくれる。
そんな人がカラオケに来てくれたり、飲んでくれる。フッ軽。
都合の良い人間だったのだ。
学生生活、自身の隣に優秀な人が付く=自身もそれ相応の価値がある。
というのは無意識化で働くはずだ。
美女の親友が不細工な男なことは稀だ。
皆それ相応のバリューでつるむ。グループを作る。メンツのため。
自分は相手のため、相手に幸せになってほしい。
相手が喜んでくれるならという思いで誰彼構わず、優しく接した。
ただその陰で「自分にもよく接してほしいな」という欲があったが
自己犠牲の精神に背くと感じ、その感情を押し殺すようにした。
でも卒業後、こうして雑に扱われていると思う。
本当の自己犠牲とは?
ヒーローとは?
相手のためとは?
自己犠牲をして何の意味がある?
エゴって?
なんでここまでこだわってたのか?
愛されたいだけじゃね?って。
ずっとモヤモヤして考えてる。
もともと持っていた自己犠牲の精神も嘘ではない。
「相手の幸せをただ祈る」「そのために利益がなくても身を粉にする」
そうありたかったし、それを目指したが、自分が相手に対して
「都合よく扱われていた」と感じてしまい、欲が出てきた。
それをヒーローなんて呼べるのか、
愛と呼べるのか、自分はどうするべきか、
何も分からなくなってきた。
また、どうするのが正しい生き方なのかと思う。
正しいは人それぞれなんて分かったうえで書いているが、
自分が納得する生き方が自分でわからない。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです