喪失とどう向き合うか。
大なり小なり、何かを失って、人は生きてる。
その表面の大きさだけでは、心に空いた穴の大きさを推し量ることはできないのだ。
人の心に住む地獄を、おちゃらけて話す言葉には垣間見ることができないように。
人の喪失の苦しみは、他者が本当に理解することはできない。
自分自身すら、その喪失がもたらした絶望の大きさを理解してないことの方が多い。
喪失で空いた心の穴が、時間で埋まるという人もいるけれど、それは喪失が薄まるのではなくて、喪失の扱いが次第に上手くなるだけだ。
喪失に飲み込まれて仕舞えば、現実を生きることは困難になるなら。
どうにかして、喪失と共に生きる術を、時間と共に否応なく身につけるから、心の穴が埋まったような感覚に陥るのだろう。
あの時感じた苦しさも、痛みも何一つ、本当は変わっていないのに。
周りは、「そんな前のことを、いつまで」と言う。
きっとその言葉には「私はそこまでではなかった」と言う気持ちが隠れているのだろう。喪失と共にあっても、私はそうはならないと、そういいたいのだろう。
確かに、そうやって、失ったものとうまく付き合って、自分の人生をうまく生きることが、正しいのだろう。
でも、失った悲しみを、ずっと抱えて、もう戻らない過去を、その人を抱えて、夢の中を生き続ける人を、わたしは正しくないと思わない。
不正解の生き方だとは思わない。
喪失でできた大きな心の穴は、その時に生じた苦しみや痛みでできている。未来の自分が、苦しむなと言っても、あの時の私の苦しみは消えることはない。
「辛い辛い」と泣き叫ぶ、過去の自分を、今の私はガラス越しに見守ることしかできない。何かを失った苦しさと言うのは、そう言うものだろう。
失ったものは、2度と私の手に戻ることはないのだから。
失ったその時のくるしみは残り続ける。
うまく向き合ってるつもりでも、時折脳裏に蘇る。
だって、ガラスの中に閉じ込めた過去の私を無視してるだけだから。
そうやって無理やり生きることと、ガラス越しに苦しい自分を見つめながら生きること、どちらがより豊かな人生かなんて、決まるだろうか。
失ったものを、ずっと忘れず生きることは、何か罪なのだろうか。
抱えて、手を離さず生きてはいけないだろうか。
それは苦しい道だけど、でも、忘れ去ってしまうのは、その時の自分とあの子にとても無礼な気がするから。
私は今日も、あなたを失った苦しみから逃げずに生きるよ。それが、あの日々を忘れない唯一の方法だから。下手くそな生き方かもしれないけど、それが私の生きなければいけない道なのだと思う。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください