今は仕事のことをよく小瓶に流してるけど、その前はずっと過去にあったことを流していました。全部匿名。
だって、それらってつなぎ合わせたら特定できるかもしれないから。
私は複雑性PTSDの診断が出ています。でも、なにがあってそうなったかの説明は私はできません。虐待があったか、というなら、あったとは答えるけど、他の虐待を受けた人らのエピソードを読めば、私のはそこまでじゃないのに…と思う。だいたい、私の話を聞いて、人が思うところで傷ついたんじゃない。でも、それを特に恐れなかった、別のものが苦しかったという私を、だからこそ複雑性PTSDだと判断した。私自身、本当に恐れてなかったのか、幼い自分はどこにいるのかわからない。
私は歪んでいる人間だと高校生の頃、自覚した。
でも、友達はいるし、家の中以外では楽しく過ごせた。
家はまともだけど、学校での陰湿極まりないイジメで複雑性PTSDになった人を見ると、それぞれ苦しむ内容が違うから、きっと私のも、その人らが見れば、どうしてそれで苦しいのかわかってもらえない。
前に「Noと言えない日本人」という本がヒットした。私はNoと言えるし、言えるからおかしいとも言われた。他におもねることが好きじゃない。
子供の私は親にNoが言えなかった。だけど、その親にNoをたたきつけて、成長した。姉は言えなかった。そして精神を病んだ。
他の、Noを言えない人を見て、何があって言えないんだろうと背景を見る努力をする。以前、言えないのは弱いからだ、と、短絡的に言ってしまって、その時を反省後悔してる。弱いのは事実だけど、それを赤の他人が言っていいことじゃない。嫌なことを嫌だ!と言えない背景には、家族の何かがある。
他の誰かじゃない。
でも、だいたいこういうことなんだろうと背景がわかっても、それを後で手直しは誰にもできない。私の過去も誰がどうもできない。
だからこそ、複雑性PTSDだとわかっても、お医者さんも誰も何もできない。せいぜい安定剤や眠剤を処方する。弱い人を強くできないし、お医者さんは魔術師じゃない。
私は過去の反動で強くなった。弱い人を見ると、どこかで過去の弱い自分を見ているような気がするから、黙っていられなくなる…と思う。いろんな人とのいろんなことがあって、こういうことは言わないようにしよう、というのができあがっている。
人の発言を聞いて(あるいは見て)、まだ経験が足らないんじゃないかなって思う。大人になって、過去に縛られるのは、現実の自分が自分なんだという実感を持てない。自分を認めてくれる人たちとの交流が少ない。
そうはいっても、私もこの頃おかしい。人の顔色を見て言うことを変えるなんてしなかったのに、様子を見て、これについては言わない、など、相手への思いやりじゃなく、自分の利己的な判断でやっている。以前の私はそういうことをする人が大嫌いで、自分でも絶対するもんか、という人だった。
生きていくために、たとえば上司に気に入られようと愛想を振りまくこともあるだろう。それを否定できない。時に、その上司に憎しみや殺意すら抱くのに、表面的には笑顔だったり、気を配ったり。現実世界じゃいくらでもある話だ。
現実を生きるのに、Noと言えというのは無理があるのだと、経験によって追加された。まだまだ追加修正されるだろう。
だから、ある人の今の言葉がそのまま将来同じとは思わない。いずれ、そう言った自分のことをわかる日が来るかもしれない。わからない人が多いのが嘆かわしいが、世の中はそういう人でできている。わかる人だらけなら、この世の中は回らない。悪と善と合間のグレーゾーンでそれぞれの人が思い悩み、毎日を過ごしている。
それを勝手に、悪だ、善だと言うことが愚かしい。が、これも言うことが定番になっていれば、私も周囲を見て言うのだ。
私が他人と違うのは、なくして怖いものはないから、いざという時に相手をすっぱり切り捨てられる。家族でも、友達でも。
なくして怖いものがある人は、いろんなものに縛られる。それが世の中。時代なんて関係ない。昔から人の関係はそういうもの。
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