愛犬がね、今、病気で苦しんでる。
日に日に階段を一段ずつ下りるように。
薬が効かない。
小さい頃から猫も犬も見送ってきたけれど、今、私の心は静か。
悲しさとか、やり切れなさすら感じない。
心がどこか麻痺してる。
もともと泣くほうではないけれど、
数年前から、さらに泣かなくなった。
泣いたってどうにもならない現実に何度か直面してくると、たぶん、こうなる。
動物の死に関しては、さらにさらに
複雑になってしまう。
素直に悲しむ感情がどこかで自動的にブロックされる。
何でかな、何で心から悲しめないんだろう。
何か、シャッターが下りるような。
なぜ?と、今は落ち着いて眠る愛犬を見ながら考えていて、ふと蘇ったのは幼い頃の記憶。
人生で最初の猫が死んでしまった時の映像が蘇る。
母が声をあげて泣いてた。
小さかった私は猫の死より、そんなふうに泣く母が不安だったんだ。
それで、泣く母の隣でふざけた。
叱られた。
そして「この子は猫が死んだのに泣きもしない!」と罵られた。
それはいっときの感情に任せた言葉で終わらず、その後も父や親戚や友人に「この子はね、猫が死んでも泣きもしないのよ!」と事あるごとに口にしていた。
幼かったけれど言われた言葉の意味は理解できたよ。
私は人として全否定されたんだ、ということ。
言葉としてでなく、感覚として理解した。
まだまだ成長している私の細胞に、母の暴言が刻み込まれてしまったんだと思う。
「私は猫が死んでも泣きもしない子」
瀕死の小さな家族を前にすると、いつもその感覚が蘇る。
何度も猫や犬や鳥を見送ってきたけれど、ビービー泣く母の横で、私は悲しくてもその悲しみを押し込め、母のように感情に任せて泣くことができなかった。
習慣て怖い。
以来、さまざまな場面で私は泣くことが下手になった。
あの猫は乱暴者で神経質で、仲良くはなれなかった。
いつも飛びかかってきて引っかかれて。痛くていつも泣かされてたけど、猫が好きだったから、めげなかった。
でも、猫の気性が激しすぎて仲良くなれなかった。
その上、私は幼かったから、死というものが全く理解できなかったんだと思う。
悲しむべきことなのだ、とは。
あの時、あの言葉で私を罵った後日、さらに付け加えて「◯◯さんちの△△ちゃんなんて、ハムスターが死んだらずっと手のひらに乗せて泣きじゃくっていたそうよ。お母さんが、もう埋めてやりなさいと言わなきゃならないくらいずっと泣いてたって。なのにアンタは!」と、傷口に塩を塗り込まれた。
そんなふうに考えたくはないけど、深い意識の中で「そうか。私は薄情な子なんだ」と認めてしまったのかもしれない。
悲しみの前ではいつも心が分裂する。
本当に感じている悲しみが、
心の中のどこにどれくらいあるのか
わからなくなる。
泣かない私を人々が「みんな泣いてるのになぜこの子は泣かないの?薄情なのね」と冷たい目で見ている気がして、無理にでも涙を流そうとするから、わざとらしい悲しみの表情しか作れなくなる。
そして自己嫌悪。
私はもう母を憎んでない。
憎むどころか「どうでもいい人」になった。
母が死んでも泣ける気がしない。
だってママ、私はあなたの言う通りの人間だものね?
「猫が死んでも泣きもしない」のだから。
あなたが罵った通りの人間になったよ。
あなたの言葉を証明してあげたんだよ。
私の苦しみは、何も感じられないこと。心からの感情が麻痺してしまったこと。
嬉しいときも全身で喜べないから、「え?嬉しくないの?」と言われてしまうこと。
喜んでいるフリをしなきゃ、と焦るから、なおのことわざとらしくなる自分が嫌い。
感情を取り戻したい。
もっと自由に心を吐き出したい。
でないと私、愛犬を、心から悲しんで見送ることができなくなってしまう。
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