私は、他の人よりすごい重荷を背負ってるんだよ。過去も今も。
私の人生は休むことを知らなくて、ずっとなにかに追われてるみたいに不幸が降り掛かってきて、私が頑張ってそれを乗り越えてもまた不幸がくる。そんな人生だった。
小学生は少し虐められてて自分の性格も難アリで。
中学生は2年半虐められて人生の線路が自分が思っていた世界とは違ってすごい暗いものだった。虐められなくなった半年では2年半の遅れは当然取り戻せなくて。
全日の高校では自分の中でクラスメイトと合わないし学校から毎朝電話がかかってその音で起きるのが学校に追われてるみたいで嫌だった。先に限界が来たのは自分で。過呼吸になって普通の生活・普通の人には戻らなくなった。
全日の高校をやめて空白の5ヶ月間。人生で最も嫌な5ヶ月間だった。毎朝起きて思うことは「今みんなは授業を受けて自分の人生を着々と少しずつ進んでるけど自分は何もない」って他人と比べて自己嫌悪の繰り返しだった。親との関係も悪かった。今振り返るとすごく申し訳ない。でも、私もすごい大変で苦しくて限界を超えてた。
通信の高校では最初は最低限、通うだけでだんだん慣れてきて無理ない範囲で通った。授業も単位も頑張って出席して取って。テストでは追試はあるけど合格して。その間もアルバイトして結果的には1年で14万稼いだね。その間彼氏もできたよね。結局別れちゃったけどすごい楽しい経験だった。この生活とか経験は中学生の頃とか全日の高校に行ってた時には全然考えも出来なかった生活で。自分の努力で中学生の頃に壊れちゃった線路をひとつひとつ直してやっと人生は明るくて楽しいものだって分かってきたところだった。
その時、パパが死んだ。
2022年7月29日パパが死んだ日にのうのうとディズニーに行ってた私は次の日に朝家に帰ってきてママに「パパ死んじゃった」って言われて。でも、この日午後からバイトで「休まないで」って言われててママに返した言葉が「そう。ごめん、午後からバイトだから寝るね。」だった。今思うと最悪。でも、そんな言葉しか出せないくらい疲れてたし今までの人生を考えると感情の機能が少しかけてても仕方ないことだなと思う。結局バイトは休んでパパのご遺体をみた。
そこには介護ベットに仰向けに寝てるパパの姿。最初はよく分からなかったし2日前までは普通に生きてたから死んだなんて意味がわからなかった。ただ見ることしか出来なかった。今でも忘れないあの雰囲気・空間・空気。叔父が死んだ時と同じ雰囲気がそこにはあった。葬式が始まるまで3日。記憶の中では1週間あったんじゃないかってくらい長かった。
ママは出かけてパパと私だけになった時、もう生きてないんだと気づく。日に日に変色していく手足。変わらない表情。冷たくもう動かない体。もう使うことの無い介護用品。もう使っているとこを見られないパパの私物・私服。全てが死んだことを肯定してくるようだった。
パパの遺体を棺桶に入れる準備。本当は家族から順番に準備の手伝いをするはずだった。
介護ベットは撤去され、白い服をまとったパパの遺体だけ。準備が進められていく。それは私にとってパパが自分の家にもう二度と帰ってこないことを肯定するように感じた。
私は手伝わなかった。ただ母方の祖母の肩に顔を埋めて泣いてるだけだった。昔から使っていたリビングには部屋いっぱいに黒い服を着た親戚。親戚が見つめる先には昔家族みんなで寝てた部屋に仰向けに置かれたパパの遺体。
「あぁ、もう生きてないんだ。本当に死んだんだ。あぁ。嫌。行かないで。なんで、親孝行何も出来てない。あぁなんでなんでなんで。」泣いた方がいいと親戚の前では泣きたくない・悲しい・行かないでと感情はぐちゃぐちゃ。泣くことしか出来なかった。
2日間の葬式が終わり、とうとう火葬。
遺体の入った棺桶を釜の中に入れる時にママが「なんで。一緒にいてくれるって言ったのに」とパパが入っている棺桶に向かって叫んでいた声が忘れられない。心の底からの叫びだったんだろう。私はその姿を1番後ろから見ていた。ママと兄の後ろ姿が未だに忘れられない。
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