小学生の時、先生が採点で書いてくれる花丸が好きだった。問題を解いたノートやプリントを持って、先生のところに並んで採点してもらうのが、いや正しくは丸をつけてもらうこと、大きく書かれる花丸を見るのが楽しみだった。
バツは欲しくなかったから、バツがつかないように、丸と花丸でいっぱいになるように頑張っていた気がする。人よりちょっと勉強を頑張るだけで、先生にたくさん褒めてもらえるし、好いてもらえる。だから、自分を肯定することもできる。
バツは罰みたいだと感じていた。バツが多いと、罰が待っているからだ。「もう少し頑張ろう」「低いね」「悪いね」「簡単なのに」「なんでできないの?」「どうしてちゃんとやらないの?」「わからないの?」「全部やり直して」…みたいな、そういう罰がある。
勉強というか何度も書いたり、解いたりといった反復練習?を鍛錬に積み重ねていくだけで、間違えてバツがつくことも減るから、それに伴って罰をもらうことも減り、罰される必要もなくなる。「手のかからないいい子」になれる。「いい子」は人に好かれやすいし、優遇してもらえる。すごく単純で嫌な話だ。
私にとって勉強は楽しむものというよりは、人に認めてもらうためものであり、自分に丸をつけるためのものであり、自分を好きになるためのものである。包括すると、自己肯定するための手段である。勉強している時だけ生きててもいいと思える気がする。そんな変わった勉強の悪魔か病気かに取りつかれている。
こんな文章を書いてる暇があるんだったら、勉強しようよ…って常々思う。勉強がしたいから、書きたくないのか。バツと罰が待っているかもしれないから、勉強しなければいけないと思うのか。書くことは、私がただの現実逃避をしているだけだと思う。意味がないし、時間を大幅に溶かしている。自己嫌悪や罪悪感、罪の意識が芽生えて私を侵食してくる。それに苦しめられる。
テストの1か月前から、テスト勉強を始めていた頃が懐かしく思えてくる。アホみたいに1日中勉強する日々を送っていたけど、あまり幸せではなかったと思う。充実していても幸せではないなんて、よっぽど不幸だ。
丸だらけのテストや100点の答案用紙が返ってきた時の達成感や充実感のためだけに、自分のすべてを犠牲にして、丸をもらうためにしか努力しなくなっていたような気がする。自分の努力と犠牲は、いつもその時一瞬に懸けていた。今はもうそれをやめたのだけど、なんだか自分は空っぽで何も中に入っていないような感じがする。
勉強するのが自己肯定の手段になると、勉強しないのが自己否定の手段になる。そのことに気づくのが遅いや。勉強でしか自己肯定ができないのなら、死ぬほど勉強してください。90点よりも100点がいい。A⁺よりもSがいい。完璧がいい。 そうでしょう?
今までもこれからもずっとそういうふうにしかあれないのだから、仕方ないこと。でも、勉強ができない。机に向かいたくない。何もしたくない。苦しい。すべてから解放されたい。逃げたい。死にたい。
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