僕は僕の価値観以外でほとんど制限を受けていない自由な存在である。僕はやろうと思えばなんでもやめられる。これら文字書きも他の趣味も学業も労働も……そして生存さえも。全てやめることができるのだ。
であるからして、僕は考えた。『自己ルールを作らないとどんどん僕はダメになる。自らを律するルールが必要である。』……大体そんなようなことを。
僕は以前まで健康マニアの高齢者を奇異の目で見ていた。「そんなにわざわざ気を遣って生存して楽しいか?刹那主義であるほうが幸福だ」と本気で信じていた。しかし、彼らは恐らく僕と同じく自己ルールの大切さに気が付いた、もしくは植え付けられて疑ってさえもいないのだろう。
僕は肉体的な自己啓発には興味がないが、全てをやめられる自由に胡座をかいて怠けているうちに年々心さえも貧していることを自覚し始めた。長文を集中して読むことができない、浅い言葉でしか心情を説明できない、すぐに思考が頭から抜けてしまう。それらの症状が出てから大切さに気付くなどなんと皮肉なことだろう。
しかし、僕は気付いたのみで未だ何もしていなかった。何か行動に移す脳さえももう自由の名の元に消えてしまったのだ。何もしない自由とやらを振りかざした挙句、僕にはほとんど何もなくなってしまった。理不尽から生じた呪詛の思いさえも遥か昔に思えてしまう。遺されたのは莫大な自由とわずかばかりの後悔だけだった。
そしてこの後悔も恐らくは数日後には消えてしまう。僕は再び自由の素晴らしさに胡座をかく生活に戻ってしまうのだろう。