わたしは昔『なぞる』ことが嫌いだった。
ひらがなやカタカナ、漢字の練習…
うすくプリントされた文字を綺麗になぞるのが嫌いだった。
迷路遊びもゴールに向かってなぞるより、いろんなところを寄り道して楽しんだ。
集団行動でもそう。
みんなで一緒に遊ぶのも、何か行事をするのも、楽しいことや面白いと思うことはやって、自分がしたくないことははっきり嫌だと言った。
授業でもみんなが賛成の意見を言ってる中、その反対の意見を探して発言したりした。
決められた線にあらがう方が楽しいと思った。
…決められた線に沿っていく方が窮屈に思えた。
たとえそのことを誰かに『みんなはこうしてるのになんでしないの』『みんなと違うよね』『変わってるね』と言われてもどうでもよかった。
自分の生きたいように生きるのが一番いいと思っていたから。『変わってる』は『唯一無二の存在』と思えたから。
その当時は『友達』が沢山いた。だから誰かに嫌われようが他にいるから別になんとも思わなかった。
その『友達』が本当に『友達』なのかなんて考えたことなかったし、自分が楽しむことに熱心で他なんて見てなかった。
私は今『はずれる』ことが苦手だ。
少し周りと違う所があれば嫌われるんじゃないかとビクビクするようになった。
多数決も多数派に賛同して、みんなの行く道に従って動く。常に周りを警戒して、目立たないように意識する。
『友達』もいなくて、他人の気持ちをさぐってばかりで、全部全部悪い方に考えて、自分を出さないようにする。
『一人の人間として見てもらいたい』
その気持ちは変わらないのに。
だんだん自分がしたいこと、欲しいものも分からなくなってきて。
自分が自分で分からない。
これからの未来。
多数派意見にばかり流されず、新しいアイデアを生み出さないといけないし、コミュニケーション能力もないといけないと言われている。
小さい頃は集団行動や真似ることが、大人になるにつれて自分の考えをしっかり持って自分の道を見つけることが大事になってくるというのに。
私はなんで退化しているんだろう。
『なぞる』ことが大事なときは反抗して、『はずれる』ことが大事なときは動けない。
わたしが『自分の生きたい人生』を見つけられるときはくるのだろうか。