『働きアリの法則』という理論がある。
集団において2割の働き者と6割の凡人、そして2割の怠け者という比率が成立しており、この集団からどこを切り取ったとしても、同じ比率でこの三者に分かれるというものだ。
このヒエラルキーは人間社会においても成り立っている。
平たく言えば中途半端な人間程、敗者という存在が居る方が安心なのだ。
生まれながらにして悲観的な人間など居ない。所詮、人の価値観は統計だ。
努力の結果、運の良し悪し、環境、縁。
人間を構成するのは個人の生きた時間だ。
可能性を否定している訳ではない、惨めさにうんざりしているのだ。
ハズレを引き続けた時間の中での結論に、努力だのポジティブだの。反吐が出る。
過去に戻ってやり直したいだなんて思えるだけ幸せ。
そもそもやり直した処で既に成功のビジョンとやらも想像できない。
自分が何に心を動かされ何にときめき何を愉しみに生きてきたかも忘れ去っている。
そんな人間にまだ夢を見ろなんて軽々と口走れる人間ってさ、どう考えても見下ろす存在が欲しいだけでしょ?ってのが念頭に来る訳だ。
別に自分だけが苦労してるだの自己陶酔するつもりもなければ、他人が生きた時間を肯定する気も否定する気も無い。
そもそもそれを天秤に掛ける事自体が世の中をおかしくしてる気さえする。
まぁ自分が他人の身の上話を聞いても『そこまでして生きたい理由があるんやろな』くらいにしか踏み込むつもりは無いし、親身に聞いた処で相槌打つくらいしか出来る事なんてないから、それ以上を相手に求める気もない。
ただ、そこまで不平等な条件の中で生死だけが平等という概念が理解できない。権利ではなく意義の話だ。
恐らく普通の人間は生きる意味を求めて時間を使ってるんだろうけど、積極的に死のうとしないだけで、生きる意志も無い人間ってのは死ぬ理由を探して時間を使ってるんだろう。
別に自分の人生で何があったかとか、誰に何をされたとか、あの時こう思ったとか人に話すつもりもないし無駄な作業だと思ってる。
個人の人生の主役は自身だから、エキストラの話なんて聞いて楽しいもんじゃないだろう。しかし脇役を疎かにするエンタメに価値はない。
2割の敗者を消した処で新しい2割が生まれる。
それを本能的に理解しているから命は平等だと吹き込んでは既存の2割を延命させようとする。
こんな生産性のないシーソーゲームを老衰するまで続けていくのが人間社会。
だから遺書は書かない気がする。
特に知ってほしい事もないし、生きる意思を放棄した手前、特に今までと何が変わるのかも想像が付かない。
まぁ『そうはならなかった』側の人間としてさっさとログアウトしたがってる自分と、もう少し暇を潰したがってる自分との葛藤に衰弱しながら、この生地獄の中で『死ぬ』というカードを選択するまでは誰に宛てる訳でもない同じ様な駄文をモヤモヤ綴るんだと思う。
無駄に繋がるSNSでこんな事しても煙たがられるだけだからね。