母親とは
いずれ誰でも別れがくる事は
わかっていますが
やっぱり、今まで楽しかった事
喧嘩した事、一緒に喜んだ事
様々な事を生前享受してきた事
53年間母親の為に
治療費や欲しいものを買ってあげたり
岡山から富士山を観に連れて行ったり
近くの店やクリスマスシーズンには
イルミネーションを観に行ってたり
もう、どこでも母親との思い出が
蘇ってきます。
母親が病気で風呂にしんどくて入れない時には
足湯をしてあげたり
鳥取砂丘では
しんどくて歩けない時にはおんぶして砂丘を
移動したり
自分は母親にやってあげたい事は全てに近い程
やってきたつもりです。
母親はよく生前言ってました。
お母さんが死んだら
「一樹は相当大泣きするぞ」
喘息と肺気腫で酸素ホースを繋がれて
部屋から台所に行くだけでもしんどくて歩けない
そんな、母親になんとしてでも
少しでも楽になって欲しい
病院にも毎週のように行って
月に一度は大きな病院で難治性喘息のバイオ製薬の
一回が保険が無かったら何十万もするような
注射もやっていました。
それでも好酸球喘息はなかなか治りません。
何ヶ月かあまり動けないことにより
筋力が低下していて余計に酸素が足りなくなって
少しずつしか動けないようになりました。
口窄め呼吸法なども本人は頑張ってやっていました
何年も前からタバコを辞めてと何回喧嘩も
しました、辞めたのは亡くなる4年前からでした。
喘息は40年近く前から
肺気腫は3年程前から悪くなって酸素療法をしておりました。
去年も入院した先でせん妄になって
先生は環境の変化でストレスでせん妄になるから
帰宅した方がいいとの事でそのときのせん妄は
まだ意識があるせん妄でしたので
家に帰ると改善していきました。
そして2022年10月4日から
また喘息で平日は1人ですから不安だったのでしょう、姪っ子に頼んで病気に連れて行ってもらって
入院しました。
10月15日病院から電話があり
先生からお話しがあるという事で
病院に行ったところ、また夜間せん妄状態ですので
喘息もひとまず落ち着いてきましたので
退院を勧められました。
自分はまた以前のような意識のある母親の事だと
思って退院を承諾しました。
母親の病室はナースステーションの真横です
いつまでたっても母親は出できません。
50分程待ってやっと、車椅子に乗せられた
意識のない母親が病室から出たきました。
脚をなん度も床に落としてひこずった感じで
全く意識が無い母親でした。
先生は今はちょっと夜間寝てなかったので
そんな感じですけど、それで様子を見てくださいとの事、自分も先生がおっしゃる事を信じて
母親を連れて車には誰も病院のスタッフも
手伝ってくれなかったので1人で抱えて車に乗せて
家にも抱えて部屋のベットに寝かせました。
母親は息苦しそうにしていましたが
意識がありません。
当日は妹が添い寝して様子をみてくれてました。
翌日朝5時に自分が、交代して妹は
母親が寝汗もものすごい量でしんどそうなので
コップにストローをさして鳥に水を与えてやるような感じで水を飲ませていました。
自分も交代して6時頃一度目の水を何度かストローで飲ませてあげました。
ゴクゴクと喉をならして水をのんでいました。
それから8時半頃2回目の水を与えていた所
母親があくびをしたのと水を与えていたのが
重なった時がありました。
今から思えばそのときに気管に水が入って
詰まったのだと思います。
水を与えて1分後、ゴホッ っと音が
したので振り返ってみると
母親が口から水を吐き出していました。
自分は口に水が残っていたのだと思い
母親の頬をタオルで拭っていましたら
母親のくちびるが段々白くなってくるのが
わかりました、異変を感じた自分は
すぐに脈をみると止まっていました。
慌てて2階にいる妹を呼んで
妹は心臓マッサージ
自分は人工呼吸をして救急車の来るのを待ちました
救急車の中でも懸命に救助処置をしていただき
病院に到着して直ぐに注射で一度は心臓は
動きましたがしばらくして心肺停止で亡くなりました。
自分のような素人が
水のやり方も分からず
危険性も分からず
不注意によって亡くなった母親が
あまりにも可哀想で
自分はなん度も死のうと思いました。
死んで詫びたい。
お母さん、ごめんなさい。
僕が死んでも母親は帰ってこない
でも、僕も、もう悔しさと悲しさ
大切に大切にしてきた母親を
こんな事で亡くなることになって
もうどうやって生きていけばいいのか
何のためにこれから生きるのか
辛くてうつ病になりました。
もう何も要らない。
音も食べ物も金も何もかもどうでもいい
ただひたすら過ちを謝って死にたい。
それだけ、ひたすらそれだけです。
仕事はしていますがただこなしているだけです。
いつでも迎えに来てくれることを待っています。
12月10日病院との話し合いで
医者はせっかく喘息が治ってきたところで
また夜間せん妄となり、興奮してまた喘息に
なったら可哀想なので早く帰宅した方がいいとの見立てでして、退院した夕方には目を覚ましているものと思っていました。
私の見立て違いでした。
退院も私の判断が悪かったと謝って頂きました。
あのとき、先生が前回のせん妄状態とは
違い今回は意識が無いとか
この状態でもし夕方までに起きない場合には
連絡してくださいなど
一言、その一言があったなら
こんな悲惨な結果にはなっていなかった事と
思います。
この状態で自分をどうやって
償いの気持ちで長く生きれそうにもありません。
何とか今は病院の精神安定剤で仕事をして
やっています。
お母さん、ほんとうに
お母さんのいう通り大泣きしとるよ。
大泣きどころかもう死にたい。
せめて母親は魂となって生きている。
病気もなく楽になって生きている。
そう信じて、とりあえず今は生きています。
でもこの悔しさと自責の念は一生続きます。
生きるも地獄、自殺して母親と会えなくても
僕のせいで母親の尊い命は亡くなりましたので
それも仕方ないと思います。