わたしの、たくさんあるうちのひとつの考え。
優しいを否定するのは何故かのひとつの答え。
自分の思う「優しさ」
求めている「優しさ」
それの違い。
たとえば、
ここにいるたくさんの助けたい人たちの居場所を突き止めて、側に行って支援してあげるような……
恐ろしい、怖いような優しさを考えるせい。
自分を大切に思う誰かのために自分を決して犠牲にすることもなく、他人のために何かを尽くす。
理想が高過ぎるせい。
きっとそう。
息(生き)苦しいのはそのせい。
でも実際にはなにもしていないから、ものすごく楽している。それがわたし。
「本当に優しいなら、動けよ……!」
なんて自分自身に対して思うから、他人からの「優しいですね」が受け入れられないんだ。
わかっている。その人のなかではわたしは優しいんだろう。
わかっている。優しく振る舞っているのだ。そういう評価を付けられて当然だ。
だが、足りない。もっと上の優しさを自分自身に付与したい。それには行動しなきゃいけない。でもわたしは行動しない。ゆえに「優しくない」となる。
正確には優しくないわけではなく、レベル1の優しさではあるが、レベル10の優しさには足りてないよね。って。
たぶんそんな感じ。
……しかし、
それにはいろんな形がある。
「優しさ」だけじゃない。物事には様々な形がある。
ボクが「優しさ」だというそれは、他人にとっては「迷惑」かもしれない。「凶器(狂気)」かもしれない。
「あなたがいうそれは優しさではありません」という、その人のなかでは別の形の「優しさ」があるのだろう。
まあ、これらを考える『わたしが持ついろいろな物事の形』っていうのはおそらく不安定だったり、ひとつの物事に対してたくさん持ってたりするんだろう。
なにもひとりの人間が何かに対して抱く感情がひとつでなきゃいけないことはないだろうから(それを他人が認めてくれるか許してくれるかはべつとして)。
今日も死にたいなあ。
でもまだ生きられるから生きるよ。
みんなはどうかな……
生きられたらいいな……
そしたらいつか死にたい仲間で王国でも作れるかもしれない(笑)
じゃあ、
死ぬまでは大変だと思うけど
「おつかれさま」
「またね」
「ありがとう」