今年2月、実家の母が突然倒れ、そのまま救急車で入院しました。
脳出血だったそうです。コロナ禍のため駆けつけることができず
自宅でじりじりしながら連絡を待ちました。
それまで家事炊事庭仕事全て母任せだった父が一人暮らしになり、
腰と膝が悪い中生活を回しながら病院からの呼び出しに対応するようになりました。
3週間ほど入院をし、検査の結果腎臓に末期のがんがあり、そこから脳へ転移し、
腫瘍ができ、出血に至ったのではないかということで県立がんセンターへ転院する
ことになりました。
そのとき、転院手続きのサポート、家事のサポートでやっと帰省できました。
実家は多少汚れていました。冷蔵庫に作り置きしていたおかずには全く手を付けず
残念ながら傷んでしまっていました。母が大切に作っていたはずの煮物を
私は全部廃棄しました。排水溝も汚れていたためそうじをし、たまっていた洗濯を
コインランドリーに持っていき洗い、自分の家でもこんなにやらないというくらい
一日中家事をしていました。冷蔵庫に残っていた野菜や缶詰を使い食事を作っては
父に食べさせました。田舎なので歩いて行けるスーパーマーケットがなく、ありものと
コンビニで売っているものをどうにか食べさせていました。わがままな父はお母さんの味と
違うと文句を言いながらも、食べてくれていました。
やっと病院へ行き、車いすの母に会いました。ぼんやりしていて、マスクが苦しいようでした。
介護タクシーで転院したがんセンターでは、まひで立つこともままならない母に血液検査や尿検査、
レントゲン、CTなど数々の検査を無理強いし母を疲れさせていました。
当然入院となり、あっという間のお別れでした。説明を聞き、書類を書き、大変忙しく
高齢の父一人では投げ出してしまいそうな量の手続きでした。本人に聞いても答えられないのだから
推測で埋めていくしかありません。ここで役に立ったのはアナログの「おくすり手帳」でした。
どこの病院へ通っていたか、どんな薬を処方されていたか、おくすり手帳があったため
何とか推測することができました。今はおくすり手帳のスマホ化を進めていますが、ぜひアナログ手帳を
残しておいてほしいです。指紋認証、顔認証は入院してしまったら解除できません。
家に帰ればまた父のおさんどんです。食事をつくり、私の料理が気に入らないと言えば買いに行き、
障子が破れた、電球が切れた、玄関マットを洗え、ひな人形を処分しろ、ここぞとばかりに家事が投げられてきます。
私も不慣れな一人暮らしを頑張っている父に同情し、なるべくリクエストにこたえていきました。
重ねて母の妹たちから次々に様子伺いの電話が来ます。電話が苦手な私はスムーズに説明ができず
疲れが溜まっていきました。
実家は東北にあります。がんセンターで入院中に、腎臓がんが末期であること、脳に転移していること、
脳出血は落ち着いているが肺動脈に血栓があり、血栓を溶かす薬を使うと脳出血が再発するおそれがあるため
薬は使えない。がんの治療はできない。終末期ケアのできる病院を探し転院させるとの知らせが来ました。
転院日が決まったころ、東北で大地震があり、新幹線が止まりました。深夜走行の高速バスで移動するしかありません。
ディズニー帰りの若者たちに混じり、満席の初めての高速バス帰省をしました。コロナ禍のため車内でもマスク着用、
水分以外の飲食禁止、Wi-Fiは一応あるけど全く使えないという中で一睡もせず地元へ帰りました。
徹夜で実家へ帰るとお茶を淹れろと言われ、ああ、徹夜バス移動へのねぎらいはないのかとがっかりしました。
午後には私よりさらに遠方から弟が帰ってきました。父はにわかに元気になり、それまで食べなかったお菓子を食べて喜びました。地震でしっちゃかめっちゃかになった2階も2人で片付け、弟のおかげで片付いたと友達に自慢の電話をしていました。
翌日は母の転院です。コロナ禍で病人と家族との面会は制限されており、退院し病棟から出てから初めて
弟と母が再会できました。母が弟を見てはっきりと笑顔になり、来てもらってよかったと思いました。
このときはさらにぼんやりして体調も落ちており、車いすからストレッチャーに乗って移動しました。
今度の病院でも私が手続きを担当し、医師の説明を受け、万一のとき延命治療を行わないという書類にサインをしました。
これは家族でも決めていたことですが、責任者として署名したときには涙が出ました。
ここではターミナルケアとともにリハビリも行うこととなり、介護保険の審査が行われました。
1月ほど経ち、要介護4と知らされました。半身にまひがあり歩くことができず、家の前の階段はあがれません。
お手洗いにも入れず、おむつを使用していました。寝返りもできず、褥瘡防止のため定期的に体位を変える必要があります。
病院の隣の棟が老人ホームとなっており、ホームに空きが出たということで運よく入所することができました。
入所に際し着替え、消耗品、食器、部屋に置く時計などを送ることとなりました。半身まひで腕が上がらないため、
前開きの服が必要となりました。インナー・パジャマはグンゼ、ユニクロなどで買えましたが、ふだん着る服というのは意外と
完全に前開きの服は少なく、イオン、ヨーカドー、ユニクロ、ベルーナなどを回り、気に入ってもらえるか不安な中
どうにか指定数をそろえ名前を書きました。
このときは母の妹がこちらに来て面会に参加してくれて、一番仲良しだった妹なので母はとても喜びました。
リハビリの成果もあってか話も通じるようになり、まひ側の腕も動かせるようになっていて、父が撮影した庭のシャクナゲの
写真を見て喜んでいました。
転院を繰り返して本人も私たちも疲れていましたが、やっと落ち着ける場所が見つかり、ほんとうに安心しました。
入所してもうすぐ3ヵ月になります。おやつの差し入れOKの施設なので、帰省するたびに買って持っていっていた
お菓子を月に1度送っています。手紙と、近所で撮った花の写真も添えて。手紙は、字を読むことができないので、
スタッフの方に読んでもらっています。何を書いたらいいのか迷いますが、こちらでは夫のがんの看病もしているので
その様子や、最近つくった料理の話などを書いています。
実は、他の施設で入居者虐待などの悲しいニュースを目にするので、もしかして母も被害に遭っているのではないか、
私の送ったものは届いているのだろうかと不安に思っていました。
体調が落ち着いているので、一昨日父が面会へ行き、写真を撮って送ってくれました。その中には、髪をきれいに
カットして整え、私の送った服を着て立ち上がる練習をしている写真がありました。母はとてもきれいでした。
この写真を見て、不安は氷解しました。私の努力は無駄ではなかったのだと思いました。同時に、施設での生活に関し
私の出る幕はないこと、「お母さん」から「おばあちゃん」へと少し距離が生まれました。
これは、離別のための準備なのだと思います。子どもは子離れするのです。感謝をもって親から離れていくのです。
父は、一生添い遂げるつもりで結婚したのでしょうから、さいごのときまでそばにいてあげるべきだと思います。
でも、私は母に依存しすぎないように物理的に距離を取り、たまに差し入れをして、母がおだやかに日々を過ごせるよう
陰ながらサポートしながら生きていこうと思います。
ありがとうと言われたい、感謝されたいといういやらしい気持ちもまだあります。少しずつ、生き残ってくれただけで
ありがたいことなのだと、親孝行の機会を与えてもらえたのだと感謝する気持ちに変わっていけたらいいです。
読みにくい長文ですみませんでした。
日に何度も泣いたり、不眠だったり、疲れやすくすぐ動けなくなってしまうけど、泣きながらでも母を見守っていこうと
思います。父は、ありがたいことに近隣の御友人や父方の親戚の方と密に連絡をとっていますので、あまり心配はしていません。
一人暮らしを楽しんでほしいと思います。
私は、冷たいようですが精神的にまいった状態が続いているので、通院療養しながら回復に努めます。
まだまだしゃんとした状態で生きていなくてはなりません。今日は少し夜更かししてしまいました。明日からまた
夫に食べてもらえる料理を作ります。いつか、いつか、のんびりと一人暮らしや一人旅を楽しみたい。
それだけが今の自分を支えています。