私ASDとADHD病院から検査をして診断を受けている者です。
よくネット上で目にする共感性羞恥と言う感情?感覚が弱く何でみんなそこまでして事あるごとに「共感性羞恥で辛い」というのがよくわかりません。
発達障害、定期発達者でも共感性羞恥あんまり感じない方いらっしゃいますか?
なぜ、人はその感情が芽生えるのかよくわかりません。
その代わりちょっと論点がズレますが、過去からくるフラッシュバックや自分の好きなも良かったものを否定される、頑張りを否定される方が個人的に辛いです。
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ななしさん
お医者様ではないので私の勝手な想像ですが、少し考えてみました。
上手に説明できていない上長文ですが、お時間がある時にお読みください。
私自身は共感性羞恥が酷い側の人間です。
ですが、私の友人には共感性羞恥が全く感じられない、という人もいます。
共感性羞恥がある人もない人も本当は沢山いると思います。
きっと、目立っているのが共感性羞恥がある人なだけなんです。
共感性羞恥は「きっとあの人は恥をかくんだろうな」「怒られるんだろうな」「"自分だったら"恥ずかしいな」という感情から生まれてくるものだと思います。
また、私が思うに共感性羞恥は3パターンあります。
ひとつめが"自分の黒歴史に関係するもの"に対して恥ずかしくなること。
例えば、昔、手に暗黒龍がいるので封印の為に包帯を巻いて眼帯をして……としていたことを黒歴史としている人は、似たような厨ニ病の人を見ると「昔の自分みたいだ、恥ずかしー!」と思ってしまう、みたいなものです。
ふたつめが"世間一般的に恥ずかしいとされていること"に対して恥ずかしくなること。
幼い頃から親が言っていたり、友達が言っていたりする"恥ずかしいこと"をそのまま恥ずかしいと思ってしまう、みたいなものです。
「あれをするのは恥ずかしいこと」「今こう言うのは恥ずかしいこと」として認識しているので、それを誰かがしていると恥ずかしくなってしまう…というイメージです。
(上手に説明できなくてごめんなさい。)
みっつめが"失敗"に対して恥ずかしくなること。
共感性羞恥が酷い人はコナンの毛利小五郎の間違った推理が聞けない、とよく言われます。
それは、毛利小五郎の推理が"失敗"するからです。
失敗するのは恥ずかしいことだ、と思っている為、毛利小五郎が失敗する=毛利小五郎が恥をかく=自分だったら恥ずかしい、と思ってしまうのだと思います。
自分語りで申し訳ありませんが、私も共感性羞恥よりも努力や趣味を否定されるのが辛いです。
ですが、共感性羞恥が辛いのと否定されるのが辛いのはベクトルが違う感じがします。
共感性羞恥の辛いは、いわゆる「見てられない」のことを指すのだと思います。
一方、否定されるのが辛いのは「自分の大切なもの(または自分)を傷つけられた」という辛さだと思います。
最後に、厨ニ病の方、毛利小五郎を例に挙げましたが、実際のところは恥ずかしいものではありません。
ただ、共感性羞恥がある人が恥ずかしいと思いやすく、例に挙げやすいものとして挙げさせていただきました。
不快に感じた方、申し訳ございません。
私もADHDとASD持ちです
お恥ずかしながら
共感性羞恥
を知らなかったので
調べたことを書かせてもらおうと思います
まず私の共感性羞恥はありませんでした
どうやら人が恥ずかしい状態に直面しているときに
その様子を見て
「自分もその状況になったらどうしよう」
と思うことで見ていて自分も恥ずかしくなるようです
好きなものやよかったもの、頑張ったことを否定されるとつらいですよね
駄々感さんは頑張っていますよ
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