自殺はよくないと言う。
自傷行為も右に同じ。自分を産み落とした親には感謝の念を持てと言う。
それ自体に文句があるわけではない。今感じている気持ちも何もかも、生きていなければ経験できなかった事だ。それを大切にしろと言う気持ちはわかる。
だが、それは良い人生を送れている者だけの方便の様に聞こえる。
裕福か極貧かに限った話ではない。どんな状況であっても、自分がこう生きたいと思っても叶わずに暮らす人々は多く存在している。
その中でも折り合いをつけて生きている場合が殆どだと思うが、それではその事をどうしても否定的に考え抜いてしまう人はどの様に生きていけば良いのか。
生来我が強い人間だっている。こだわりが強い人間もいる。今ほどの自由思想のないかつての日本ではその様な人間は社会的に一定の弾圧を受けて屈するしかなかったのだと思うが、その上でどうして我々は生きる事を美徳化するのか。
私の両親は新婚旅行には行かなかった。旅行に出る前には私を母親が身篭ってしまったからだそうだ。
敢えて嫌な表現をすれば、それはつまり夫婦としての生活の段階を一気に飛ばして、強引な父が母を無理やり求めたか、お互いに気が急いていた結果なのだろうと推測出来る。
そこに責任はあったのかと思う。充分に育児のプランを考えた上での性交渉だったのかと考える。あんな本能的な行為を、特殊な訓練も受けていない一般国民が冷静に計画性を持って為しうるとは到底考えにくい。
だというのに、女は「どうしても産みたい」という。赤子を見ても父親になった実感がない男も多いと聞く。
結果として父は浮気をして、育児の負担は母が一身に背負う事となった。その割に父は私に学歴を求め、母もしばしば面倒を起こす私を罵倒する様になった。
繰り返すが、それ自体を徹頭徹尾悪いとは言わない。
両親も、色々と変わる状況の中で対応するのに精一杯だったのだろうと思う。私も人の事を言えた人間ではないし、寧ろボロボロになりながらも何とか私を育てようとした母には感謝している上、一度は家族から逃げてしまった父親にはその情けない人間味に一定の親近感すら覚えてしまう。
だが、決して素晴らしい事ではなかったはずだ。どこかで何かが狂うだけでも、家庭内暴力や虐待、殺傷事件だって起き得た環境だったと思う。私は問題なく義務教育をこなせる程の家庭環境に生まれたが、それでもそうした問題は絶えず付き纏っていたのだ。
そういう世帯は私に限らないはずだ。貧困の中に生まれずとも、日常のほんの些細なバランスのせいで全てが壊れてしまう様な、そんな危険と隣り合わせで震えて暮らす人間は多い筈だ。
だというのにどうして、その過程を良しとするのか。「終わり良ければ全てよし」なんて、こんな身勝手な言葉があるだろうか。それまでの苦しみは、不安は、それまでに刻まれたトラウマや傷は無かったことになるのか。死ぬ間際になって家族や全ての人と無理やり笑顔で語り合えというのか。前世代の無責任で産み落とされた我々は、どうやって等しく人生を肯定していけば良いというのか。
結果を出すしかないではないか。結果を出してそれまでを肯定するしかないではないか。では、結果を出せなかった人間の軌跡は何なんだ。
それでも素晴らしいというのか。言わねばならないのか。
なぜ生きる事は、無条件に肯定されるのか。
綺麗事ではなく、人それぞれだとかその様な曖昧な表現もなく、個人的な意見で構わないので導き出した者がいるのならば参考に教えてほしい。
なぜ我々がそう思わねばならないとされるのか、種の生存といった生物学的な理由以外で教えてほしい。
名前のない小瓶
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公正世界仮説の所為です。
どの人も、自分の人生には良い行いへの報いがあり、悪い行いへの罰が下される事、そうしてくれる秩序が世界に存在する事を望んでいます。あなたなら分かるでしょう。人がそう信じているだけの概念である事が。
世の中には、いっその事産まれてこなかった方が良かった生、死のみが救いになりうる生は十分に存在しえます。私やあなたがそのような状況に陥る可能性は、あなたがお示しの通り、また十分にあり得ます。
怖いですよね?悪い事はしないように心がけ、皆に優しく親切にしていた人間でも、突然ドン底に落ちる可能性があるという事です。
公正世界仮説が抱える問題として、被害者非難というものがあります。
普通の人間が、理不尽(可能性としてはありえた)な不幸な事件に遭った時、その被害者を責めてしまうというものです。
「(世界は公正なのだから)真面目な人間が理不尽に事件に遭うわけがない、きっと被害者に至らぬ点、不真面目な点があったのだ」
という風にです。
あなたの言う、「人生の無条件な肯定」にどこか似ていませんか?
「(人生は素晴らしいものだから)途中にどんな事があったとしても、終わりさえ良ければどうにでもなるのだ。いや、有終の美を飾らずとも、その過程さえも尊いものだ」
つまり、みんな「人生は素晴らしい」と信じたがっているという事ですね。
では、何故皆そう思うのか?そう思わねばならないとされるのか? これも公正世界仮説にヒントが見えそうです。
公正世界仮説を信じるメリットとして、
「未来を信じる事ができる」があります。
世界は公正だから、”将来“努力はちゃんと報われる、良い行いは報われる、悪い行いは罰される、きっと自分はその報いで幸せになれる、といった風にです。
公正な世界が保証してくれる、その幸せな未来を信じる事で、将来の目標を立てる事さえあるでしょう。まだ見ぬ(けれど保証された)幸せな未来の為に努力している間は、きっと少々の苦痛も跳ね除け、幸せでしょうね。
もしも公正な世界の保証が無かったら、明日にも理不尽に遭うかもしれない未来のために努力、ましてや目標なんて立てませんし、運命の気まぐれで降ってくる理不尽の到来に日々怯えて過ごす事になるでしょう。
さて、どちらの場合も来たる理不尽の確率は同じとして、どちらが当人にとってより幸せでしょうか。私には前者に思えます。
社会的にも、刹那的な思考の人間が多いより、未来に向けて着実に努力していく人間が多い方が発展も進むでしょう。
とどのつまり、あなたの言う通り、人がより幸せに生きるための方便です。実際は無秩序な世界に公正な世界という、ある意味神のような存在を仕立て上げ、まだ来ても居ない理不尽に無闇に怯えずに済むようにしてあげるためです。
しかし、それによって被害者非難を行う事はしたくない... しないようにしていきたい、とあなたの小瓶を読んで痛感します。
公正な世界を信じる事で辛うじて人生を生きているのに、その根幹が揺るがされるとしたら怖いでしょうが、それで他の人間の人生についてアレコレ言う権利がどこにあるのでしょうか。
あなたがこの宗教に入信するか、しないかは自由です。しかし、この小瓶を書かれたあなたなら、理不尽に遭った人に、また理不尽を重ねるような行いはされないでしょう。
あなたはそれだけの賢い人です。
是非とも、あなた自身の、より良い仮説を作り上げていかれる事を切に望みます。
以下はまだお返事がない小瓶です。お返事をしてあげると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。
もー!無理!ガチでついてない!ただのグチ笑笑
涙が止まらない。ぐちゃぐちゃな頭の中で考えるのは、死にたいという事。湧き起こってくる感情は、ただ死にたいという衝動
思い出しても無感情なことがあった。痴漢だとか性犯罪にあった人が当時のことを思い出して苦しんでいるニュースを見ると、自分も当事者なのにどうしてこんなに平気なんだろうと思うことがある
シャンプー飲んだら死にそう
父親に対しての気持ち
なんか…しんどくなってきた。辛くなってきた。いろいろやって…前より良くなったと思ったにさ。一時てきなやつで、また、考え込む。辛くなる
Twitterで初対面の人へのDMでミスしてもう死にたい
無理
本当の自分って?家族の顔色、友達の顔色、バイト先、ネット。みんなの顔色を伺って、迷惑かけないように頑張った
『そんなつもりで言ってない』と言われても。まるでこちらがおかしいかのように、そんな言葉を返される
余計なことを聞かない人といると楽
すぐ嫉妬するのやめたい。私が仲良くなりたい人が別の人と遊ぶかもしれないやり取り見かけるとすぐ嫉妬してしまうやだ
私の全てを奪ったくせに。なにもかも上手くいかなさ過ぎて旦那の前で「何でこう何もかも上手くいかないの」と零したら、「人生で上手くいくことなんて滅多に無いよ、俺だって」と言い始めた
不登校なりに頑張ってるよ
「こうしたい」って願うだけで、何も変われない。馬鹿で大嫌いな自分。