(月に吠えたんねぇを読んだ直後のせいか変なスイッチが入っている)
日ノ本に於いては、好きなりし事さえも言ひ難き風潮さえ在ると、ふと思い至る。
好きだと叫ぶのは自由と言うけれど、ヤアヤアそれならこれは知っておるだろう、知らぬだとこのにわか者め、恥知らずのミィハァめ、と囲い込んで喚き散らす者達が居る。
愛する事に資格は居るのだろうか、いや初耳だ。
だが彼等の言い訳、さながら資格無き者愛づるを責める如し。
斯くして人は、好きだと言ふ事を難し、恐ろしと怯えてしまう。
然し、彼等の言い訳、誠に信じられようか?
知らぬは罪ならず、これより知るといふ者さへ罵られる謂れとは何か。
彼等の知る事、万物に到れるだろうか、いや足らぬだろう。
そもそもに於いて、彼等は如何なる所から罵る権利を得たといふのだろう。
けれど彼等は言う。
幾らでも調べられやう事さへ知らぬなど恥なのだと。
話をすり替へて誤魔化すなと。
学ぶ隙さえ与えぬのは君達じゃないかと言う声は彼等に届かない。
つべこべ言うなとつべこべ言いて己を護る彼等は、糾弾者として相応しい者だろうか。
アア、何とやましい事か。恥ずかしい事か。
彼等が好むは、それを愛する己自身なのだろう。
アクセサリィの如く纏った愛を、鏡でウットリと見ているのでは無い。
愛を着けた己の美しさに見蕩れているのだろう。
知らぬまま愛でる者と、熱心に愛づる己を愛する者と、いづれが恥知らずと言えようか。
優劣を付けたがる事さへ、糾弾する事さへ、そもそも恥ずべき事である。
そう、我さえ恥ずべき所はあるものだ。
何が言いたいんですかねこれ。