繋がりをもってしまったばかりに、誰かを欲したり、誰かの目を気にしたり、誰かに見返りを求める様になってしまった。
元々、ここ5年は孤独に生活をしていたはずで、そこに何ら不満も不安もなかった。
誰にも気にされず、誰にも愛されず、誰にも嫌われない生活は快適だった。
半年前に出来心で人との交流を求めた結果、今はしがらみにまとわりつかれている。
荒波の様な感情の起伏を繰り返す日々が辛い。
誰かと繋がっている事はきっと幸福なのだと思うし、健全なのだと思う。
でも自分が誰かの苛立ちや不快感の種になっている、そんな心の動きを目に見えるほど近くで感じたくなかった。
実際そんな事は今まで幾らでもあった。
でも自分の目に見えてなければ気にならなかったし、それが大切な人でもなかったのだからなおのこと気にもしなかった。
大切な人々の心を軋ませる感触は耐え難い。
いっそ嫌いだとか、二度と会わないとか、遠くへ切り離してもらえたらどんなに楽であろうか。
それを相手がしない事に一縷の喜ばしさを感じる自分も、自ら遠くに離れ様とはしない自分も本当に下卑たヤツだ。
自然消滅といつか相手から求められる期待の狭間に揺れ動く時間と自分自身の承認欲求に憤りながらも、結局何も対処しない自分の心をコナゴナに砕きたい。
救われたい、と思う心を切り離したい。
2点、他に考え方がある。
1誰かに見返りを求める様になってしまった。
→これは、すぐに変えられる。見返りを求めなければいい。これをしたら、この人に好かれるだろうと思いきや、それは神のみぞ知るところ。この人のために何かしたいという気持ちだけで、相手に何かしてあげるならあなたは救われても、相手に何かして貰うことを期待していては永遠に幸せにならない。なぜなら、あなたが、あなたを幸せにするしかないから。あなたしかあなたを真の意味で、物理的にも大切に出来ないから。
2誰かと繋がっている事はきっと幸福なのだと思うし、健全なのだと思う。
→これは、誰かの言葉の受け売り。そのまま自分の考えのように感じてしまっているだけ。一人で自分で自分と繋がっていなければ、誰とも繋がれない。自分自身と繋がって、自分を大切にできて、はじめて誰かと繋がれるし、相手の幸せを考えられる。でなければ、「こんなにしてやったのに」と他責になってしまう。それでは元の木阿弥。誰も幸せにならない。まずは、自分が楽しいな、幸せだな、すごく楽しい!と思えることをひとりですること。