故郷に帰れない悲しみを再び吐かせてください。
(状況)あの原発のある町で生まれ育ちました。忌まわしいあの日,「3日程度で帰れる」と言われた両親は,何も持たずに避難させられました。実家には,わたしが何よりも大切に思う黒猫が置き去りです。あれから1ヶ月が経過し,町はまだ立入禁止で,わたしも両親も実家に帰ることができていません。
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避難中の母と電話で話をした。大震災の日,日が沈み避難勧告(「3日程度で帰れますから」と言われ早1ヶ月)が出た時,猫の銀は地震を怖がりどこかに隠れていて,いくら呼んでも出て来なかったそうだ。滅茶苦茶になった家の中で,懐中電灯の明かりを頼りに,隙間に隠れた黒い猫を探す時間と余裕はなかっただろう。家の窓や扉は勝手に開いてしまっていて,外に出た可能性もある。家の中には首輪が落ちていたらしい。赤い首輪と金の鈴は黒猫によく似合った。動物愛護団体に捜索願いを出すことも考えていたけれど,首輪が取れてしまった黒猫を探すのは困難だ。でも,自由に移動できるならまだいい。犬の龍は,実家の庭に繋がれたまま置き去りらしい。わたしは昔から犬が怖いので,龍の世話はしたことがないし情も薄いけれど,さすがにそれを聞いた時は返す言葉がなかった。庭に鎖で繋がれたまま置き去り!!家にある全ての餌を置いてきたとしても,3日もすれば食べ尽くしてしまうだろう。
そのあとは鎖に繋がれたまま餓えて死ぬしかない。そして雨が降って,腐り,他の餓えた動物や蛆虫に貪られる。福島第一原発のある町に帰れる日は,いつになるだろう。それとも故郷に帰ることはもう諦めるべきなのだろうか。海辺の小さな田舎町のキャッチコピーは,「フルーツの香り漂うロマンの里」。でも今故郷に漂うのは強烈な死臭と絶望と放射線。そしていつかわたしと家族はそこへ帰り,ぐちゃぐちゃになった愛犬と出会うのだ。
大学の春休みが明けた。できればまだ誰にも会いたくないし,その話に触れたくない。こうして文字にできることでも,平気で口に出して話せるようになるにはまだまだ時間がいる。ただ布団の中で自分の傷を舐めていたい。一日中横になっていると,布団の中で脚が何か別のものに変形していくような気がする。何か,うんと速く移動できるものになればいいのに。決して逃げるためじゃない。故郷の町に出入りできるようになったら,すぐにでも銀を探しに行くため。家の中の食べ物がなくなったら,銀は隙間から外に出るだろう。外は危険がいっぱいで,銀が生き延びられるとか,きっとまた会えるとか,そういう可能性は現実的には考えられない。可能性は考えられないけど,でもわたしは銀を諦められない。だから今は布団にくるまり,息をひそめて,ただその時が来るを待つ。布団の中では色々な夢を見る。おかしいくらい悪い夢ばかり。どこまでも知らない男が走って追いかけてきたり,酷い交通事故を起こした
り,体をぐるぐる縛られて海に沈められたり。そうして頭の中の悪夢で死んでしまうと,すぐに現実の悪夢の中で目を覚ます。母と兄はそれぞれに,銀の夢を見ると言って泣く。目覚めなければよかった,と呟いて。わたしは夢の中ですら銀に会えないけれど,いつか目覚めてしまう夢ならば,会えない方がいいのかもしれない。わたしの脳内の夢工房は優しくて,悲しみを恐怖で紛らわせてくれる。少なくとも,知らない男から逃げている間や交通事故を起こす瞬間は,銀のことを考えないでいられるから。いつか現実で銀を探しに行ける時が来るまで,今はまだ,こわい夢に甘えていよう。
Balthazarより