「人助け」とは、自分優先か、相手優先か?
あるブログを読んでいた時、そのブロガーさんの言葉が引っ掛かった。
「私は自分の知識や経験を記事にすることで、世の中の人々を救いたいと思っている。しかし私はカウンセラーではないので、個人の相談については一切応じません。ちゃんとそう書いているのに、最近、相談メールを送ってくる読者が多くて私も困っているんですよね~。私がこれまでに書いた記事を読んで、自分で答えを見つけて下さいね~。」という感じの意味合いのことが書いてあった。
確かに、自分にできることは限られている。もしできないことを頼まれた時は、断ることも大切だ。
でもそれって、自分が助けたいように相手を助けているだけなんじゃないか?そんな風にも感じるようになった。
自分が書きたいように記事を書いて、それを一方的に発信して、「勉強になりました」「元気が出ました」と一部の読者からは感謝されている。
その一方で、藁にもすがる思いで相談してきた読者たちのことを、どこか見下した感じで追い払っている。これは本当に人助けなんだろうか?
本当の人助けとは、相手が本当に望んでいるものを与えることなんじゃないのか…。
専門的なアドバイスができなくても、せめて心に寄り添って、共感することくらいは誰にでもできると思う。
自ら「人々を救いたい」と言っている以上、相手の悲しみや苦しみと丸ごと向き合う覚悟でいることが、本当の人助けなんじゃないか…。
でもやっぱり、自分にできないことは、はっきりと断るべきなのか。
でももし、悩んで苦しくて辛くて、必死に誰かに助けを求めた時に、そんな風に断られたら私は辛いし、傷つくと思う。
人助けというものが分からなくなってきた。
人助けって、自分ができる範囲内でするもの?
それとも、相手の心が満たされるように、相手の立場になって行動するもの?
名前のない小瓶
111590通目の宛名のないメール
小瓶主の返事あり
お返事が届いています
お返事ありがとう。
人助けって本当に難しい。
小瓶を流してからも、このことをずっと考えていた。ネットでもたくさん調べた。
そして、何となくだけど、考えがまとまってきた気がする。
人助けは、あくまでも「相手が主役」なんだ。そして助ける側は、あくまでも「サポート役」なんだ。
まずは、相手が本当に困っているのか、それとも甘えているだけなのかを見極める。もし本当に困っているなら、相手が何を望んでいるのかを聞いて、自分ができる範囲内で、ちょっとだけ力を貸してあげる。寄り添ってあげる。主役は相手なのだから、それくらいがちょうど良い。
もし自分にできないことを頼まれたら、言葉を選んで丁寧にお断りすれば良いのだ。
あのブロガーさんは、それらができていなかったんだ。ブログ内の言葉の端々から、「自分は人助けをしている偉い存在なんだ」という感じが伝わってきていた。
そして、悩んでいる人たちのことを、どこか見下しているような言葉もいくつか見られた。甘えている、依存している、未熟な人が多い、など。
だから何となく、しっくりこなかった。私が感じた違和感はそれだったんだ!
助ける側は決して、「自分が助けてあげているんだ!自分が導いてあげているんだ!」と思ってはいけない。
困っている人の上に立つのではなく、あくまでも対等な関係でいることが大切だと思う。
できないことを断るのは良いけれど、相談してきた読者のことを見下す必要は無かったんだ。本当に人助けをしたいと思っているのなら、相手を傷つけないように、言葉を選んで丁寧にお断りできたはず。
しかも、相手が甘えているのか、本当に困っているのかを見極めるためには、その人と直接、何度も言葉を交わさなければ分からないものだ。
相手の性格や能力、状況も様々だから、一通のメールを見たくらいでは判断できるはずがない。
だから、相談してきた読者をひとくくりにして、「自分で解決して下さい」と突き放すことは、本当はやっちゃいけなかったんだと思う。
みんながみんな、自分の力だけで解決できる人ばかりじゃないから。誰にも頼れなくて、やっとの思いで相談してきたのかもしれないから。
言葉は、本当に気を付けなければならないと感じた。
きっとこのブロガーさんは、記事を書いていくうちに、読者から感謝されたり、読者が自分の書いた通りに行動してくれていることに、いつの間にか快感を覚えてしまったのかもしれない。つまり天狗になってしまったのだ。
そしてこのブロガーさんは、「自分の問題は自分で解決するべき」という考え方の人だったから、その記事通りに実践した読者のことは可愛いがっていたようだった。
反対に、それを実践せずに頼ってきた読者たちに対しては、「なぜ自分の言う通りにしないのか!」っていう感じで、面白くなくて、だから読者たちを見下すような言葉遣いになってしまったのかもしれない。
つまり、自分の思い通りにしたかったわけだ。
でも先ほども書いたように、本当にその読者たちが何の努力もせずに、楽して解決しようとして相談してきたのかどうかは、詳しく話を聞いてみないと判断できないことだと思う。
人を見下すという行為は、自分に自信が無い時にするものである。
このブロガーさんは、言葉遣いはどこか偉そうだったが、本当は自分に自信が無くて、世の中の人を救うことで、自分という存在を見せつけたかったのかもしれない。
人助けをする見返りとして、自分の地位を確立したり、利益を得たりといった感じなのだろう。
おそらくそういう人たちが「偽善者」と言われてしまうんだろうな。
だが、そういう見返りを求める人助けは、そう長くは続かないと思う。
人助け、人を救うという言葉は軽々しく使うべきではないのかもしれない。
そういう言葉を使うから、助けを必要とする人たちがたくさん寄って来てしまうんだ。
人助けをするのなら、相手の悲しみや弱さも含めて全てを受け止め、相手と共に歩むくらいの覚悟が必要だ。
それができないのなら、人助けという壮大な言葉は使わずに、「ほんの少しですが、サポートさせて下さい」くらいの控えめな態度でいた方が良いのかもしれないと思った。
主さんの言いたいことや気持ちは分かる
けれども助ける側がしっかりしていないと共倒れになる可能性もあるし
出来ないことは出来ないと言ってくれる方がありがたいかなと思います
本当の人助けとは…
難しいですよね
こちらは人助けのつもりでも偽善者とか言われる事もあるだろうし
全員を助けることなんかできっこないですしね
相手の心が満たされるように動いて
自分が削られていってはどうしようもないですし
なんか文章めちゃくちゃになってきちゃいましたが
私はそれぞれができる範囲で助け合えればいいのかなと思います
困ってる人をAさんは30%助けられるけどそれ以上は無理
Bさんは30%~60%助けられるから助ける
Cさんは…みたいな感じで
色んな人ができる範囲で助け合っていって
困り事がなくなればいいかなと思いました
以下はまだお返事がない小瓶です。お返事をしてあげると小瓶主さんはとてもうれしいと思います。
あーーーーーこれ詰んだわこれ。私って人前に出ちゃいけない人間なんじゃないの。人に迷惑しかかけないじゃん。やばいこれまじで
やさしくされるとくすぐったい あなたがいるだけで 心があったかくなる
いろんなことに傷ついて苦しくなる
いつも友達に嘘ついてにこにこしてる私。それってほんとうに友達なのかな?何も話せない。何も相談出来ない。でも皆にとってはこれが最善。
ドミノ・ピザの箱に書かれている英語。いくつかバリエーションがあるけど、サイドメニュー用の小さな箱に書いてある文が、心に引っ掛かってしまった。そんなはなし。
小説「大切なもの」#3萌希の過去
生きてきて思ったこと
ぽあ、名前変えてもだいじょぶですか??
ODがしたいです。前にも2、3回ODをして全部親にバレました。
死にたいんじゃないんだよなー。跡形もなく消えたいんだよ。
新社会人になって、職場の人達のことがちょっと怖くなってきてしまいました
『辛いことだらけの人生でも、ほんの一瞬でも生きててよかったと思える時があるのならそれでいい』という意見もあるけど
早く病死か事故死したい。お金なくて子どもに迷惑かけてる
結局人間が1番怖い。何で、いつからこんな人間になったんだろ自分。どこで道間違えたんだろ。人間なんていなければいいんだ。私も例外じゃない
みんなに知っほしい事。読んでもらいたい本があります。「世界一貧しい大統領」の言葉です