混沌としている。自分が。これで良いのだ。
思考だけが取り残されて手持ち無沙汰なだけ。
もう決まっているよね。知っているのに知ら
ないフリが上手い。分からないということが
分かっているという哲学風に誤魔化した答え。
そう、こういう感じ。本心では全く誤魔化して
いないのに、世間の目を意識するもう一人の
自分が本心を馬鹿にする感じ。靄がかかって
いるように思うのは今闘っているから。理想、
本心がはっきりとあるのに現実、建前が我が物
顔で批判するのを傍観する感じ。この傷付きを
常に体験している。嘘を付いているのを隠しきれ
ない。見逃しておけばいいのに。どうするの。
真面目ってまめという意味と冗談が通じない、
融通が利かないという意味がある。後者の真面目
はつまらないと思う。自分のそういう所が嫌い。
まめじゃない、他人に興味がない所も。今年は
そういう許せない部分を許して心の幅を広げる
のが目標だけど。そのくらいいいじゃん。自分
ばかりに興味津々でも。多分その執着の度合いが
他人に向かうと怖いからどこかでセーブしてるん
だよ。というより実は自分に執着したいわけでは
ない。何かに没頭したくて堪らないんだ。だけど
それが見つからない。そんな空虚な自分、彷徨う
自分でもいいじゃない。許せないこと自体がつまら
ないんだよ。没頭できる対象を探しているのか。
情熱を全力で降り注げる何かを。それが見つかれば
一瞬で自分への執着なんか消えるよ。どうして。
どうして見つからないんだろう。何が足りないん
だろう。ヤキモキする自分も全部全部許そう。
どんなに駄目でも。罪人でも。狂ってしまっても。
許そうと努力してくれる自分で良かったと思う。
以前の自分ではあり得なかった。世間の目は
許さないかもしれないけれど、誰一人賛同者は
いなくても、失敗しても結果が振るわなくても
何の地位も名誉もなくても許す。忘れても何度も
何度も思い出す。この戦争のない今の日本に五体
満足で生まれて、衣食住の不自由なくアートや
エンターテイメントを楽しめて自分の将来の選択に
悩むことができて好きな場所に行けて好きな人と
話せて好きな本が読めて表現できる自由。こんな
ありふれた毎日こそ幸せであること。死の淵に立った
ことのある人は同時に生の凄まじいエネルギーを
体感している。死とは縁遠いと思うような環境に
いる時、命の力強さへの感覚も鈍感になっている。
死から生を見ることは偶然であり、その辛い体験を
しなければ体感できず、汎用性が低い。
逆に生から死を見る視点、これが育つと、つまり
両側から見ることができれば、常にエネルギーを
保ちながら命を全うできる、そのような気がする。
多分これなんだと思う。何か具体的に貢献すると
いうことではなくて、命の重さを力強さを常に感じ
ながら生きること。今自分への怒りに注いでいる
エネルギーを死と同時に立ち上がる命に向ける。
このエネルギーは一体どうすればいい?宗教では
win-winが美徳。自分も他人も。他人の力になると
いうイメージがどうしてもわかない。このエネルギー
を何かで純粋に表現できた時他人の命を鼓舞する。
それが役に立つということではないか。具体的な
何かは何も分からず。。