私は「自分にとってこれは必要だ!」と少しでも思ったものは欲しくなるし、イベント等であれば行きたくなる。
そのためお金をよく使う。もし持っていれば惜しまないし、持っていなければ欲しいモノ・コトの有用性を親に説いてねだる。
自分自身では「いつかリターン返ってきそう!」という様な超適当投資感覚なのだが、親などは私の事を「浪費家」と言う。
親の考えも良く分かる。お金だけ出して返ってくるものがあやふやだったり、そもそも何も返ってこなければただの無駄だ。
私は何かが返ってくるという”ピンとくる感覚”があるためバンバンお金を使うのだが、いざ何がいつどういう風に返ってきて何の為になるのか言語化しろ、と言われたら出来ない。
そのため浪費家だのなんだの言われるのだ。
それがどうしても嫌だった。
ある時、父親と軽い言い合いになった。
田舎在住の私が「東京のあるイベントに行ってみたい。自分のお年玉で交通費を出すから行かせてくれ。」と頼んだときのことだ。
父親が行くための条件を出してきた。
・何時に出発し何時に帰ってくる予定なのか予定表を自分で作って父親に見せること
・そのイベントが信頼できるものなのかどうか判断材料を父親に与えること
・怪我、病気など不測の事態に対応できるようにすること
この3つである。1つ目と2つ目は私も「それは当然だ」と了承した。
そして3つ目の条件、不測の事態に対応できるようにという条件に対して、
「以前それで失敗したから大丈夫だ。今度は同じ失敗はしない。失敗は成功のもとと言うだろう。」
と私は自信満々に言った。それに対して父は、
「信用できない。まだ学生であるお前が犯したその失敗に対して、最終的に責任を取ったのは保護者である俺だ。」
「一度失った信用は取り戻すのに”時間”がかかる。お前はその”時間”をかけて何事にも対応できるよう準備をするべきだ。」
と言った。
少しムキになった私は、
「ああ、父さんは責任を取らされるのが嫌なんだね」
と言った。
すると父親は絞り出すような声で、
「違う。お前のことが心配なんだ」
と言った。
それを聞いた私はとても後悔した。
そして同時に、「自分の行動に対して自分で責任を持つことすらできない」自分の未熟さを嫌というほど思い知った。
自分のものやお金を使うならば何しても自己責任と言う訳ではないのだ。
何か失敗したとき、その尻拭いをしてくれる誰かは必ず存在している。
誰かに尻拭いをさせることなく自分の行動を積み上げていき、「こいつなら大丈夫だ」と絶対的な信頼を得てから初めて手が離れる。
自分で自分の責任を持てる。
…と私は解釈して学んだ。
自分でこのことを忘れないように、またこれを見た人が何か得るものがあるようにと願って小瓶を流します。