「自分を好きになれない人は他人を好きになることはできない」
「自分を大切にできない人は他人を大切にすることはできない」
よく聞く言葉ですけど、皆さんどう思いますか?
ありきたりな悩みだと思うんですけど、私は自分が嫌いです。
自分の嫌いなところならいくらでも挙げられます。でも好きなところは考えるだけでムカムカしてきます。
学校で自己PRを書かなくちゃ行けなかったんですけど、書けませんでした。周りの人がどうしてスラスラ書けるのか全然わかりませんでした。
また、いろんなことを自分のせいにしてしまいます。こんなにも自分を責めるのは少し異常かもしれないとわかっているんですけど、やっぱり自分が悪いという結論しか出てきません。
周りの友達はみんな私なんかとは違って素敵なんです。だからすごく大好きだし、大切に思います。
最初に書いた2つの言葉、もっともらしく聞こえますけど、本当にそうなんでしょうか?
自分が嫌で嫌でたまらないからこそ他人を大切にする感情っておかしいですか?
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください
ななしさん
短所を長所に言い換えればいい。
飽きっぽい→色々なものに興味をもつ
優柔不断→慎重である
落ち着きが無い→活動的
みたいにね。私も長所なんてこれっぽっちも無いけど、高校入試の面接の自己PRはこれで切り抜けた
ななしさん
周りの人を大切に思う、その貴方が素敵なんじゃない?
【おいら】
ななしさん
私も自分が嫌いです。
そして本気で人を好きになったことも、大切だと思ったこともありません。
でも、誰かのために嫌いな自分でも生きていたいって思える事もある。
自分が嫌いでも好きになってくれる人がいるならその人を大切に思えるものだと思います。
ななしさん
私も自分が嫌いです。あなたと同じで、自分を責めすぎて、ありのままの自分はマイナスな存在だと思ってしまいます。だから、人を大切にして、人に認められることで自分の価値を見出して、自分を認めようとしてしまいます。書いてらっしゃる二つのことば、私もよく言われます。このことばが本当だったら、どうしていいかわからなくなります。
この前、「人に望まれてることをするんじゃなくて、自分のやりたいことをやって、自分の人生を生きなさい」と言われました。でも人に望まれることをすることが、自分のやりたいことなら、どうすればいいのかわかりません。
ななしさん
これから書くのは極論の類なので9割方差っ引いて読むことをお勧め致します。
単純にその考えを究極的に突き詰めるとその想いが一方通行にしかならないことに起因しているように思います。
例えば、相手を好きになることは可能でしょう。
しかし、自身を嫌いな人間は相手からのの好意・厚意を真直ぐに受け取る事が出来ません。
何故なら自身の判断基準では相手が自身を好きになる理由が無い。相手の行為を素直に額面通り受け取れず、それが重なり歪んで来ると相手の好意・厚意に裏を疑ってしまう。若しくは認められない。
そして、最初好きだったはずなのに裏を疑い始めると反転してしまう。
相手を大切にすると言う場合
これは、相手を大切にするとか相手を思いやる場合、基本的に良く言われるのが「相手の身になって考えろ」というものが有りますが、これは「相手の状況に自身を置いて」「相手にすることを自身がされた場合自身がどう思うか」を考えると言うことだと思います。
そこでこの場合、相手の身になって自信を当て嵌めて考えた場合、自身を大切にしない人は相手の身に自身をおいた場合、大抵のことに嫌悪感が薄れてしまいます。
嫌悪感が麻痺してしまうともいえますが。
そういう状況ですと一般的な人より相手の感情に対する想像が幾分上限・下限が緩くなってしまう可能性があると思います。
例えば、普通の人が嫌がることでもその人が感じた場合、そよ風に吹かれるかのごとく普通のことである場合境界線が狂ってしまう可能性が在ります。
その例としては、相手のために何かをして自身が傷ついた場合、自分の価値を認めていないのだからどうってことないと思うかもしれませんが相手にとっては自身のために傷を負ってしまうことの負い目が生じる可能性が在ります。
貴方が大切にしたいような素晴らしい相手なら尚更です。
その場合は自己犠牲の自己満足で相手にとっては負い目が出来て最良とは言い難い結果になる可能性が在ります。
そして、自身が嫌いなあまり相手を思いやり大切にすると言うのは勿論有ると想いますが、その場合、恐らく自身を使い捨てる行為になるのではないかと思います。
さながらジャムおじさん達の居ないアンパンマンの様に。
顔を食べさせる毎に減って行き替えの顔は届かない。
いずれ破綻してしまいます。
そして自身が自身を切り取って相手に差し出すものに価値を認めていなければ何を切り取ったとて自身にとっては無価値なものを相手に渡す行為に他ならずそれは相手を大切にしているのかどうかは疑問の余地が残ってしまいます。
勿論、受け手はその価値を見出すのでしょうが、自身に価値を認めていない場合、自分の何を差し出そうとも価値が無いと思うのであるのならそもそも何を差し出すことも出来なくなります。
最終的には自己の判断さえ信用に値せず価値が無いとまで行く場合すら在ります。何せ自身の全てを嫌い認めない場合においては自身の価値判断すらあやふやなものになってしまいますし。
勿論これらは最初に書いたとおりある一定ラインを超えた(行き過ぎた(一種病的といって良い))そういう思考の持ち主ならそういうこともあるかな程度では有りますが、そこまで行かなくとも微小でもそういった傾向はありえるのではないかと思います。
そしてそういう傾向が無い・少ないと自己判断する場合、何某かの価値を自身に認めていることになり、それによって相手を大切だと言い、相手を好きだと言えるのだと思います。
ななしさん
今は大切だと思えても、自分にないものを持ってる素敵な友達をいつか嫌いになるかもしれない。
好きだという感情が妬みに変わるかもしれない。
人間てそういう風に出来てるんです。
最初は憧れててもやっぱり妬ましく思えてきたりしちゃうんです。
私は特にそういう性格で、誰かを大好きになれたことがなく、恋愛もしたことがありません。
自分の事を好きになれない時点でやっぱり他人の事なんて好きになれないんです。
生まれた時から死ぬ時までずっと一緒の自分自身のいいとこを分かってあげられないなら、赤の他人のお友達のいいとこが分かるはずないんです。
だからそんな言葉が生まれたのでしょうね。
私はそういうのも人間らしくていいと思いますけどね
ななしさん
私自分の顔が大嫌い
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください