なにもかもを理解して許せたそのあとにならなければ謝罪の言葉を相手から聞くことができなかったなんて、当たり前といえばそうだけど残酷な話と思う。
中学時代の家庭環境での締め付けによってやや遅まった反抗期を終え、そしてその締め付けの元凶であった精神疾患を持つ姉の激烈な性格もあの頃に比べればだいぶマイルドになって、今になってやっと家族と和やかに会話できるようになった。
とくに母親とは完全に打ち解けて、普通の親子みたいになった。
普通の、仲のいい親子。ふざけたり孝行したいと思ったり、軽口を叩いたり。
姉とも、インスタで見たこれが可愛いあれが可愛いだのを共有したり。
別に前からしていたことだけど、態度にトゲやためらいがなくなったと思う。
そうなってしばらくしてから、車で移動しているときにふと一番大変だったときの話題になって、母に
「湖には本当に申し訳なかったなと思ってるんだよ」
となにげなく言われた。
もうそのことについては別に何も思ってないはずだったのだけど、なんとなく感慨深くて、ここに書いている。
気にしてないとは言ったって、やっぱ大変だったなって。
今までの苦しみが全部、実情を知る誰かにようやく認められたと思った。
別に謝って欲しかったわけじゃないし、謝られたからそういう気持ちになったわけじゃないと思う。
今まで苦しんできたことすべて、その根源が、その謝罪された内容に詰まっていた気がしたからなのだと思う。
私の苦しみは存在した。
でもそのことを知るために、私の場合、誰かの苦しみや事情を知り、認めなければならなかった。
私の場合においては、認めなければ打ち解けることができず、打ち解けなければ謝罪はなされないものだった。
それはつまり
なんとか自我を保つために見ないようにしていたものを一度見直さなければ、それ以上自我を保ち続けることに限界を迎えていたということで
という、そこそこ残酷な話。
私の心はこんなにも穏やかになれたのか、と思う。
生きていることに満足した。
傷付く前の私がどんな風に息をしていたのか、どんな風に世界を見ていたのか、少しだけ思い出した。
こんな風にすこし鮮やかだった。
そう、傷ついた。
私は傷を持ってる。
やっとこのことを素直に認められる。
人間は弱くて儚くて、ささいなことで傷ついて、だから私だってこんな風に心のどこかにかすり傷を持っていても不思議じゃないってこと
そしてそれは恥ずべきことでも隠すことでもないし、だからこそ、声高に叫ぶものでもないってことを。
私は傷を愛してもいいってことを。
生まれてきてよかった。
やりたいこと、やれることがこの世界にはたくさんあって、もしかしたら私は傷の痛みに気を取られて何もできてないのかもしれない。
しかしそれは不安なことじゃなくて、素敵なことだ。
かすり傷やその傷跡の上に成り立つこの世界もこの人生も、すべてが愛おしい。
きっとね、こんな気持ちもこのシーンが過ぎれば自動的に押し寄せてくる不安によってぐちゃぐちゃにされちゃうし考えたことも忘れてしまうけど
今は確かにそう思ったんだよ。
そう思った。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
すごくやさしい言葉をかけてあげてほしいです