❶ 周りの人のすごいところしか見えない
・自己肯定感 → とても低い
・自分を大切にする気持ち → ない
❷ 周りの人の欠けてるところが気になる
・自己肯定感 → 低い
・自分を大切にする気持ち → ある
❸ すごいところも欠けてるところ見える
・自己肯定感 → 少し高い
・自分を大切にする気持ち → ある
これについてもうひとつ、思ってることを書こうかなって。
人間ってみんな、理屈と感覚の両方を持っているけど、「どっちがどのくらい強いか」は人によって違うと思います。
どっちのクセが強いかによって、自責の仕方も違うのかなって。
他の人の文章読んだりして感じてて。
・感覚つよめ × 自責 = 感覚的な自己否定
・理屈つよめ × 自責 = 理論的な自己否定
なんとなく、こんな傾向があるのかなって。
感覚的な自己否定というのは、
「傷つけちゃったな。私ってひどいな」
「また失敗しちゃったな。私ってやっぱりダメなんだ」
「私なんてみんなの隣に立てるほどの人間じゃない」
…みたいに、感覚をベースにした自己否定。
理論的な自己否定っていうのは、
「人に嫌われるのは嫌なくせに、 自分は人を嫌いになるなんて最低だ」
「このパターンで人を傷つけるのって前にもやってる。何回も同じパターンで傷つけて、学ぶことができない私には生きる価値がない」
…みたいな、理論をベースにした自己否定。
感覚的な自己否定だと、
❷ 自分を大切にする気持ちはある
・自己肯定感 → 低い
・自分を大切にする気持ち → ある
ここで止まることが多くて、
理論的な自己否定だと、
❶ どっちも低め
・自己肯定感 → とても低い
・自分を大切にする気持ち → ない
ここまで行っちゃうことが多いのかなって。
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「私なんて、って言われたら、Aちゃんを好きな自分のことまで否定されてるみたい」
「私が好きな Aちゃんを否定しないで」
って言われて、自己否定やめれたよって話もときどき聞くんだけど、
私はこんな風に言われたら、「自己否定をしてる自分を否定された」みたいに感じちゃって、
相手の気持ちを素直に受け取れなかっただろうなって。
そんな自分にはやっぱり、根っこの優しさがないんだって思っていたんだけど。
たぶん ❷ で留まってるひとは、視座もそこまで低くなりすぎないんだと思います。
自己肯定感が高い人の感覚を❶ の状態よりも持ってる。
だから自己肯定感が高い人の感覚を素直に受け取りやすいんだろうなって。
今は、
「私なんて、って言われたら、Aちゃんを好きな自分のことまで否定されてるみたい」
「私が好きな Aちゃんを否定しないで」
っていう言葉にも納得ができるし、
ものすごく深い優しさだなって感じることができるんです。
それが嬉しいんです。
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今までの失態を思い出すたびに
どっかに隠れたい気持ちになります……
「わかんない」につぶされそう
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください