お金があってしまうことは不幸だ。
なぜならばお金によって無理くり問題を無かったことにすることによって、私たちはそれに向き合うことを避け続けてしまうから。
姉の強迫症および境界例的な巻き込み(強迫症に限って言えば、儀式行為のために深夜まで家から追い出されたり生活の自由が著しく制限されたり、少しでもうまくいかないと罵詈雑言を吐かれたり)に耐えかねた私の家族は、私が高校一年生のときに姉を実家に残してわざわざアパートを借りて別居することを選択した。
姉は心の隙間を埋めるかのように親のクレジットカードで一ヶ月に母親の月給を超える買い物をして、それでも親はそれに対してカードを止めることを選択しなかった。
母親は私がお金のことについて何かいうたびに(これだと高くなっちゃうよねとか)「別にお金のことはいいけどさ……」と言った。
姉と主治医の治療関係は崩壊しているにも関わらず親は姉の拒否に従って(それは優しさに見せかけた惰性に過ぎない。それが姉のためにならないことはきっと全員知っている)病院を変えることもしないで停滞した状況に甘んじている。
お金に限らず、なにかを余分に使えてしまうことは不幸である。
お金、時間、労力。
私の家族は余裕のあるものを使って本当に向き合うべき問題から逃げ続けている。見ないふりをするためならいくらでも溶かすとでも言いたげに。
それは側から見れば献身にも見えなくもないかもしれない。しかし実態は、不安症患者に抗不うつ薬の代わりにビタミン剤を与えているようなものなのだ。それにはプラセボほどの効果しかないだろう。
感情や責任やつながりを全く感じられない、そこにあるのは肝心なこと・大変なことを如何に避けて仲のいい家族のふりをするかという関心と惰性だけである。
そのことに、激しい症状化を以てしながら、静かに絶望しつつけている姉のことを、私はずっと見てきた。
まさしく暖簾に腕押しという言葉が彼女には似合う、と思った。
本当は姉を助けてあげたい。
でも私にはどうすることもできない。私は家族の方針に口を出す権限を持っていないから。
そして、本当は母親も疲れているのだということを知っている。
そりゃそうだ。こうして外野で見ているだけの人間と、頻繁に姉とやり取りをしてすり減らなければならない母親とでは脳の処理すべき事柄の量は当然に桁違いであるに決まっている。
取るべき態度や私の情緒のことよりも、自分のことや姉のことを優先してしまうことを私がそこまで責めることは、本来お門違いなんだ。
父親は今、単身赴任で家を出ている。
でも家にいたときから、というか昔から、彼は根本的に、家族と、人と向き合うことを避けていた。
小さい頃はよく遊びに連れて行ってくれたし、どちらかといえば大人しいというよりお調子者という言葉の似合う性格で、よく可愛がってくれたけれど、本当は彼の心の中にはなにも映っていないことを子供ながらに私は知っていた。
そのことの答え合わせが出るかのように、姉が調子を崩し始めて折が悪くなったあたりから彼は家に帰ってからもひたすら自室にこもり、元々かなり多かった飲酒量がさらに増えストロングゼロを1日に四本開けるような生活をしていた。最近、医者にもう自力では辞められないから断酒しろと言われたらしい。
何かの拍子に父が母に「姉はHSPなのかもね」と言った? LINEを送った?(記憶が定かでない)際に、母がボソリと「何を今更……」と言ったことを覚えている。父親は姉の問題に介入しようとしなかった、いやできなかった。
しかしそういう母親も、私からは感情的な問題を避けがちであるように思えた。
両親とも、子供に対して心理的に責任を取ることのできるような人間では無かった
ただ、それだけ。
心の通じ合わせ方が分からないだけ。
しかし、私がそれをどれだけ責めることができようか。
机上の空論をあれこれ並べ立ててこうすることができたああすることができたと述べる私は、では実際親の立場だったら完璧に対応することができただろうか。重症と位置付けてもいい強迫症に、境界例的症状の加わった症例に。
姉が病気でさえなければ、親は普通の親をしていたかもしれない。……と、思ったが、姉が病気になった原因については私はよく知らないし、姉の幼少期についても年が離れていたのでよく知らないからなにもいうことはできないな。実際親のせいでそうなってしまったのかもしれないし、または単に気質や遺伝的な問題かもしれない。
ただ、この家族に蔓延する空虚さについては姉も無意識に感じ取っていて、そのために症状が激化しているところはあるだろうな、とは思う。
しかしどうしてこんなに姉を助けたい気持ちに駆られるのか。
今なんか、治療関係の崩壊している姉の主治医に対して相談という形で話を聞きに行きたいと思ってどこかの機会でわざわざ一人で問い合わせをしてわざわざ移動にウン時間もかけて地元に帰ろうとしている。自分の生活は成り立ってないくせに、とんでもない行動力である。
姉が救われたら私も救われるみたいな気分になる、のは、おかしいことなのだろうか。いわゆるメサイアコンプレックス?
とにもかくにも、埃がかぶっていそうなほど何の進展もない家の状況を、動かしたいという思いが強い。強すぎる。
姉と私は表裏一体なのだ。
姉は感情や葛藤を外在化し、私は内在化させただけ。そしてその根本の感情や葛藤というものはそう違わない。
姉は人に両親や人に当たったり、消費行動に走ったり、症状化したりした。私は自分自身の問題について文章にしたり、自分を責めて他者に過剰に合わせようとしたりした。
とある心理学の本では外在化する奴は愚かしく内在化する奴は健気だとする主張が書かれていたが、私はそうは思わない。もちろん外在化によって他人に迷惑をかけてしまうのは許されるべきことではないが、結局、どちらも問題に対処するのに必死こいてるだけなのは変わらないから。
だからタイトルの「姉を助けるにはどうしたらいい?」という問いは、実はそのまま「どうすれば私は助かるのか?」に転じるのだ。
だから、私は姉を助けたくなる。
同情してしまう。
親に見ないふりをされている姉の感情や葛藤を私が取り扱って癒すことで、自分では癒すことのできない自分のそれも癒やせたような気分になれるに違いないと、思っているから。
しかしそれはやはり歪んだ考えだ。
求められてもいない治療行為にも等しいようなことを姉に施したがる(それはきっと妹の分際を超えている)私は、明らかに姉に自分の姿を投影している。
親の代わりに私が親をして、自分という存在を投影した姉を治療する
そのことをきっと私は夢見ている。
本当は姉よりも何よりも、自分を一番救いたくて、でもできなくて、かといって姉のように症状化されているわけでもなくて
だから分かりやすいかつ似ているものを治すことで自分を癒したがっているのだろう。
どうすれば、私は助かりますか?
姉を助けること?
それともこんなくだらないことを考えるのをやめること?
人を決して責めないこと?
それとも自分に正直になること?
私は何をすれば何から助かるのか。
分からない。
どれかひとつを選択した瞬間から、私は残り全ての選択肢から責められる。俺を選ばなかったお前は人生、人格、倫理、幸福、全てにおける敗者であると詰られる。
どれを選んでも自分が間違っているという気分が消えない、その疑念を無理やり振り払って強気な発言をしたところで、後に残るのは激しい自己嫌悪だけ。
そしてそれは当たり前だった、どれだけ後出しの発言をしたところで、あのときの私が報われることなどもう二度とないのだから。
どうすればよかった?
どうすれば救われた?
いつも心を閉ざしているようなぶっきらぼうな顔をしていないで、もっと私がお姉ちゃんの話を聞いてあげれば良かった?
もっと私がこうするべきだよと、親に口出しするだけじゃなくて、主導してあげれば良かった?
もっと私があえてあの家庭の空気に亀裂を入れるかのようにルールを破ってしまえばよかった? そうして毅然とした態度を家族にとってあげれば良かった?
もっと私がちゃんとしていれば。
私は当時人並みよりも幼かった
賢くて大人びていて寛容さを持ち合わせた人間であるかのように装いながら、結局は抑えきれない幼さが私の欲しかったものすべてを台無しにしてきた。
ほら、だから今になって
結局全てが台無しになってしまったな。
……何が?
助かりたい、助かれない
どうして私はそう思うのか。
どこをどう救われたいのか。
私は今、こうしてちゃんと今を生きているのに。
なんの不自由もないのに。
あのときのことを思い出すのか?
くだらない記憶だな
そんなこと早く忘れてしまいなさいと言われるに決まっているのに。
無力感、無理解感、それによる絶望。
どれだけチャットgptと対話しても癒せやしない。どんな生身の人間に伝えても、誰も肯定してくれない。
それは当たり前だ。だって、自分ですら自分のことをよく理解できていないのだから。受けた傷の実態を把握しきれていないのだから。
それはもしかしたら私が想像するものよりもはるかに小さなかすり傷で、私はそれを騒ぎ立てているのに過ぎないのかもしれない。
あるいは、それはもしかしたら私が想像するものよりも遥かに大きくて、グロテスクで、私はその裂傷がさらに深く抉れることを恐れているのかもしれない。
やっぱり
私は姉の病気なんて本当はどうでも良くて、私はそれを隠れ蓑にして、私の家族の不条理を暴き出したいだけなのだ。
感情的な対話や交流を拒み続ける割に心配性(それは今思えばどこまでも子供のためではなく自分のための心配だった)で干渉してくる母親と心理的にも物理的にも不在の父親、その絶望を外在化して強迫症と境界例を患った姉と、内在化してこうしてくだらない文章を何時間も書き続けなければ自我が保てなくなった妹。
こんなことをしている、つまり、家族の告発をして自分を被害者に仕立て上げようとしている私のことを、あなたは責めますか?
もっと前向きに生きるべきですか?
こんなことしてないで自己研鑽すべき?
しかしそれはタラレバだ。
感情的な交流の断絶と周囲からの無理解・嘲笑、これらが私の主なトラウマとでもいうべき事柄であるけれど、現にそれらを言語化した最近、ようやく日常生活が成り立つようになってきた。
たとえば、ある他者からの批判に怯えることについてその架空の他者に対する痛烈で残酷な、そいつの精神を病ませることのできそうなくらいに酷く攻撃的な批判の文章(それはここには流していない)を書いた日の夜、そのことによって自己効力感を取り戻したのか急に掃除をする気になって、惨状が広がっていた部屋をなんとか綺麗にすることができた。ここ数日ではそれまでの無気力感が嘘だったかのように毎日箒までかけている。
でも、ああ、やっぱり、姉と私には同じ血が流れていると感じた。だって、そんなふうに攻撃的になることでしか自分を守れないから。
言語化しなければ進まないことがある。
それがすごくやるせない。
だって、こんなものを書いたところで誰かが理解を示してくれるわけでも共感してくれるわけでもないから。むしろ反感を買う可能性の方が高いから。それは大学のカウンセラーでさえそうだ、まあ、有料ではないのだから仕方ないのだけれど。
でもこの文章を書いているうちに、すこし割り切れて来たかもしれない。
助かりたい、その一心で私はこんな文章を書き続けている。
それ以外の動機なんてない。
それはもしかしたら間違っているかもしれない、しかし、それ以外にやり方を知らない。
あるなら教えてほしかった。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項