でも、病気には重さがあるよね。なんでそこで優先順位をつけないの?妥協して割り切らなければならないことはたくさんある。なのにそれをなぜ実践しないのだろうか。俺はそこまで重いわけじゃない。なら、他の重い人を優先するべきだ。こんな中途半端なやつに気をつかう時間も労力もないだろうに。
中途半端な状態は嫌。できるけどやらないのは、もはや怠けてるとしか言いようがない。痛いのは嫌い。だけど、心の痛みは癖になる。誰でもいいから俺を傷つけて欲しい。いくらでも刺して欲しい。ズタズタにして欲しい。胸が締め付けられて、息が苦しくて、でもあったかくて、泣きそうになる感覚を味わいたい。自分が現実にいることを感じたい。
自分を分析して、奥の奥にいる自分を暴きたい。考えたくて、知りたくてたまらない。好奇心を満たしたい。たとえ、奥に知りたい自分がいなくてもいい。いなかったというのも一つの答えだから。その過程で痛みがあるとなおいい。プロフィールで反論して欲しいって書いたのもそう。別に傷つかないわけではない。衝撃を受けるときだってある。でも、考えていくにつれて好奇心が満たされていく。痛みが快楽に変わっていく。自己分析が思わぬ方向に進む時もある。そのときは、天啓を受けた気分になる。こんなことに付き合わせちゃって悪いとは思うけど、知りたいし暴きたいし満たされたい。
今日の小瓶はぐちゃぐちゃ。
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ななしさん
自分も同じようなこと考えてるなぁ…と、蒼月様の小瓶を読ませてもらって嬉しくなりました。
私も精神面と肉体面に病気があるんですが、多分はたから見れば「そこそこ健康そうな人」。
引きこもり状態でも、家事をやれたりたまに買い物に行けたり、読書やYouTubeを楽しんだり、こうしてネット上で人と関わることもできる。
つまり蒼月様のいう「中途半端なやつ」。
苦しさや辛さは人と比べるものではない、なんて人には言いながら、そんな自分自身に嫌らしさや後ろめたさを感じてしまうことも否定できない。
それでも、精神も肉体も苦しくなって、どうしても動けない時は確かにあって、他人のことを考える余裕なんてなくなってしまう。
蒼月様もそんな感じではありませんか?
普段は比較的「軽い」病状の人でも、「重い」状態に陥った時には休養やケアが必要ですし、逆に普段「重い」病状の人でも、比較的「軽い」体調の時には何かを頑張れたり、「重い」誰かを気遣えたりもするんですよね。
宛メという場所のみならず、社会はそうやって微妙なバランスをとっているんじゃないかな、って思うんです。
自分を分析(解剖)する痛みと快楽、尽きることない好奇心、それは間違いなく私の中にもあります。
「中途半端」な自分は許せないけど、それを容赦なく追及している時の自分だけは一応許す、みたいな。
研究用の動物と冷徹な研究者が自分の中に同居している感じ。
時に精神医学や生物学、社会学や政治学や文化人類学、文学やアート等の視線も借りながら、自分という不可解な現象を究明するのは楽しいですし、それで何らかの法則やメカニズムを掴めた時には最高のカタルシスをおぼえるんですよね。
私もちょっとした創作(俳句・川柳・短歌等)をするんですが、それもある種の自己分析、自分との対話だと思っています。
もちろん、こうしたお返事を書くことも。
どれだけぐちゃぐちゃな(私はそうは思いませんが)文章でも、読む人の心に何らかの影響を与えることは間違いないです。
ある人にとってそれは「天啓」かもしれない。
バタフライエフェクトのように、世界に変化を与えていると思いますよ。
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