もう生きていたくないなあ、と思い続けてもまた日は昇るし私は一日の半分を夢の中で無為に過ごしている。
いっそ何かを恨んでしまえたら、と思うけれど何も成しえず家畜のように肥えて死んだ目をしてただ存在しているだけの私に、何かを号哭する権利はあるのだろうか。
怠惰に身を任せて流れるばかりの私に享楽を得る資格はあるのだろうか、と疑問に思いつつも結局またパソコンを開いて非現実に逃げている。
SNSを見れば立派に働いて、あるいは勉強して日々邁進している社会的人間足る人たちが楽しそうにおしゃべりしていて、素晴らしく何かを好きになっては人生を生きている。時折どうしようもない壁にぶつかって苦しんでいる人を見かけては、大した苦しみも無いくせにすべてから逃げ出して苦痛(笑)に酔いしれている自分のことがバカバカしくなって、また自分の生きている意味と生きるべき理由がわからなくなる。すべての人は悩み苦しみを抱えながらも、それでもと前へ進んでいるのに、私は15歳の夏からまともに生きることを放棄してしまった。
どうしてなのか、はわからない。何かがあったわけでもない。一つだけ言えるとしたら、私がその時に人生のレールから外れることは間違っていた、ということだけだ。いっそ中途半端に逃げ出すくらいだったら、希死念慮に身を任せて首でも吊っていれば良かったものを、と過去の自分に言ってもできないものはできないのだから仕方ないだろう。
とにかく私は、私の心に巣食う苦痛を大事にしすぎてはもう戻れなくなった人生の落伍者だ、戻る気すらもう失せてしまった。
誰かは私に死ななくとも良いと言ってくれはするが、それは違う、と私が真剣に否定しても正気を疑われるのみなのだ。私は正真正銘に生きるべきではないと思い込んで、私はただ、人生に付きまとう苦痛に疲れてしまった、人間でいるべきではなかった、ただの小さい何かということを、私が人の形をしていることを理由に、誰も信じてくれない。
あるいは間違っているのは私で、周囲の善人が言うことこそ正しいのかもしれないが、それを考えることさえ拒否したいと願うほどにはもう私の頭には何も残っていない。私は死んだ方がいいんだ。死なせてくれよ。もう何もできないんだよ。罪悪感と無力感ばかりが募っていく。
冒頭で私が死にたい、ではなく生きていたくない、と書いたのは、私自身の怠惰をよく表していると言える。とどのつまり、私には死ぬ勇気なんてこれっぽっちもないのだ。
善人たちの「死んだら悲しい」なんて言葉を真に受けて、「愛されている」ことを免罪符にして、恵まれているくせして改善の努力もしないで空疎に生きている。私は何もしていない。何もできないのではなく何もする気が無かったのだ、と気づいたとき、既に現実は私の眼前を提出書類の山のように積み重なって覆いつくしていた。
私は山の前に立ち尽くすばかりで、それを乗り越えようとも、避けようとも、平らに均そうとも、いかなることもせずに突っ立っている阿呆だった。焦燥感と不安と、あまりにも人間らしい自分の感情たちがひどく重かった。今だって自分が人間であれない劣等感が山の上に降り積もっている。
生きていたくない、と私にのたまう権利がないことなんて自明の理だ。生きるしかないのだ。生きるためには動くしかないのだ。私は。例え誰も私のそばにいなくとも、たった一人違う世界で戦わなければならなかったとしても。誰も助けてくれなくたって、生きる以外に道は残されていない、から、絶望と共に根拠のない希望を追いかけて、馬鹿を刷り込んで、苦しむ以外に、私に贖罪の道は残されていないんだろう。アンビバレンスに支配される。どうしようもなく理想と現実の狭間で苦しむ。
私は生きていたくなかった。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項
ななしさん
素晴らしい文才ですね!
でも、とてもお疲れのように感じました。
SNSからもしばらく離れられるといいのですが。
それにしても、長文なのに読み続けさせる力がありますね。本当にすごい。
すみません。苦しんでおられるのに感動してしまって。
人生のレールなんて、あるようでないんです。
これからの世の中、レールに乗らず自由に過ごす世に変わっていくと思います。
大丈夫ですよ。
ななしさん
考えれば考えるほど、ますます辛くなりそう。
コーヒーでも淹れて、一息ついてほしいです。
理想が現実にならないなら、とりあえず実現できそうな事を目標にするのはどうですか?
まずは小さな事から始めてみては。
誰でも無料でお返事をすることが出来ます。
お返事がもらえると小瓶主さんはすごくうれしいと思います
▶ お返事の注意事項