タバコの香り。重たい扉を開くと、すぐにそれベルの音と共に出迎えた。私の歩みに合わせ床材が深くまで届くような音を鳴らす。
よく知った顔に会うために、こんなに身を固くしたのはいつぶりだろう。あれはそうだ、丁度5年前のことだろうか、彼女に初めて会ったのもこの店だった。決して艶やかではないその姿に,私はこの仕事が全うできるかどうか不安でたまらなくなったことを覚えている。
カウンター席に腰掛け、人差し指を店主に見せる。そうするといつもの酒が位置ものように差し出される。氷の鳴る音も、ボトルを開け閉めする煌めきも、息使いですらいつもと変わらない。
ドアベルが新たな客人の訪れを知らせた。
ヒールが痛々しい音を立て近づいてくる。席についた彼女から香る香水が、いち早く私の頬を撫で挨拶をした。
「私もそちらを。」
いつもの台詞が告げられる。
私はそっと笑顔を作った。おそらくこの人以外には見せることは無いであろうそれを、いつも彼女は否定する。
「御機嫌よう。お久しぶりですね。」
「御機嫌よう、また嘘くさい笑顔をするのね、ちっとも上手くならない。もっと笑ったら?」
「まさか、上手いものでしょう?あなたは一段と綺麗ですね、以前よりもずっと。」
「ありがとうお世辞は結構よ。」
彼女は最初とは全く違う様子をしている。黒い髪は艶やかに照り、唇はバラの花弁のよう、細身の体には淑女に相応しい衣装を纏っている。
彼女が私をみて微笑み、瞬きをする。睫毛が誘い瞳が揺れる。手首のブレスレットも小刻みに輝き、ネックレスは呼吸を確かにみせた。
「順調そうですね。余裕が見える。」
「失礼ね必死にやってるわ。中間報告書はこれに入っています。また見てちょうだい。あぁあ!、本当なら君の仕事なのに、なんで僕?ふざけすぎじゃない?」
「仕方がない。あなたが女顔だから。よく似合っていますよ。全く女性に優しい領主らしい。お目が高い!」
『彼女』は私の同僚で生物学上も精神的にも男性である。ただ,さるお方の一存で高嶺の花を完璧に演じ、5年間も女として立ち回っている。尊敬に値する人間だ。
「ここ、君の奢りね。」
「ええ、構いません。」
彼女は鼈甲色の酒を流し込み、一息つく、その眼差しは、我らの同志たる暗い閃光を秘めていた。
「主に、抜かりないとだけお伝えください。」
声を小さくして発せられた台詞には、見た目には不適切な幼い青年の声。声変わりをしたが、まだ子供っぽさが残っているそれを聞くと、私の背筋が伸びると共に、心のどこかに空いた穴に風が通りすぎた。
「承知しました。…。ー次はいつお会いできましょうか?」
できる限り上等に芝居をうつことにした。女を待つ叶わぬ恋に焦がれる哀しい男のセリフだ。
彼女は笑った。目を細め、一瞬少年の面影を薄っすら滲ませ……。
「ありがとう、また、ここでお会いしましょう。さよなら。」
彼女が店から去った後、口紅のついたグラスのみが彼女の存在を証明した。いつ儚くなるかわからない彼女にはこのぐらいの曖昧さがお似合いなのだろう。金剛石に飾られたピジョンブラッドを私は手に取る。氷が傾きグラスを鳴らし、かすかに残った琥珀が寂しげに揺れた。
終わり。
夜中に思いつくがまま書いてみた適当なワンシーンです。ごめんなさい。
暇では決してありません。卒業をかけた戦いを今繰り広げている真っ最中です。
お目汚しでしたが、片時でもあなたの気持ちが紛れてくれたら嬉しいです。それではまた、どこかで。
お返事がもらえると小瓶主さんはとてもうれしいと思います
小瓶主さんの想いを優しく受け止めてあげてください
mzk
表現の仕方や文章の書き方がとても好きです!
読んでいて、この世界に引き摺り込まれるような感覚になりました。
僕は趣味で小説を書いているのですが、表現や文章がとても参考になりました。
是非続きも読んでみたいですね。
素晴らしいワンシーンをありがとうございます!
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