さっき認めた文がなんだか納得いかない。
頭の中で構築してた時はなんか良い感じだったのに。
そういうことは多々ある。
そういうことのほうが多い。
それでまたなにかを書くのだ。
わかりあえないものとして
一線引いた。
でも本当はその一線を越えて手を取り合わないと、殴り合わないと、真の友達(親友)、仲間……真の世界平和が訪れないとしたら?
なんて考えて、一線を引くことが正しいのかを疑問に思って悩みつづける。
一線を引いて、きっぱりすっぱりと区切りを付け清々しくなるのではなくて、その線をずっと見つめてもやもやしてる。はたしてこの線は、いるのかいらないのか。越えるべきなのか越えないべきなのか。
正解などない。間違いもない。
それはざっくりと、なんだかふわっとした空虚から見てそうなだけ。
個人の中には、なんとなくこれが正しい気がするとか、これは間違っている気がするとか、本当に“なんとなく”あるもんだ。
今書いたこれも、本当に“なんとなく”で。
神様。っていう絶対的な存在がいて、その神様が正しいとすることが正しくて、間違いとすることが間違い……
そんなはっきりしたものが、有る者もいれば無い者もいるわけで。
混沌としている。
最近は「多様性」だなんだのと、より混乱を極めている。
ある人間は、『◯◯だから迫害していい』などの、どこか根付いた考えに疑問を持ち始め、その考えの上に、考えを重ね出す。
ある動物は、そこらいったいの生物を全滅させる力を持っていて。でもそうすると食べるものが無くなって自分たちも死んでしまうから、考えて、あるいは本能で動く。
常に生きてる。
ぼくらは生きてる。
何かをしている。
何かをしてしまう。
心臓が勝手に動く。
流されて生きているか、自分の意志を感じて生きているか。
ぼくからすれば、それもきっと“なんとなく”。自分がそう決めて、そうしているから、そう。みたいな。
人間が、皆が、そう決めて、そうしているから、そう。みたいな。
流されているみたいに思うけど、「そうじゃない」という強い意志のあるものは、流されてないんだろう。
視点……
どう映るか……
わかりようがない。
ぼくは、ぼくの視点しか持てないから。
客観的も、あくまで“自分の”客観的でしかない。
同じ映像を複数人で見た時、全員が同じ感想を抱くわけがないと思ってる。
だからなんだ。
さっきからわたしは何を喋っている?
あまりにも、考えられていない。
脳内に浮かぶままに、そのまま出しすぎている。
そうして、一呼吸置いたら、急に言葉に詰まるのだから。
今すこし考えている。
そろそろ終わりだなって。
途切れるタイミングがあるんだ。
集中力……かもね。
なんだっけ?数十分しかもたないんだっけ?
それで数十分休憩して、そしたらまた集中……って。
YouTubeとかにポモロード(タイマー)というのがあるよね。作業効率を上げるテクニック的な?
たまに聴くよ。環境BGMとか好きだし(雨音とか)。
でも休憩パートもそのまま作業してたり、そもそも何かするわけでもなく聴いてたりして、ちゃんと活用してないw
勉強するなら使うけど、勉強しないしなあ。
はい!
じゃあぼくもみんなもおつかれさま〜
今日は閉幕でーす。
またのご来場お待ちしてまーす。
気を付けておかえりくださーい。
分かり合えないと判断して一線を引いて関係を絶つことと、
その判断が正しかったのか?
ぶつかり合った先に分かり合えた可能性があったかも?
という『かもしれない』の不安からもやもやするのかなと私は思いました。
正解が分かれば迷わなくて済むのに。
正解が分からなくとも自分の判断が正しかったのだと信じることが出来たら悩まなくても済むのに。
一線を引くときに記憶も含めて全て無かったことに出来たら良いのに。
日記のページを破いて捨てても、破いた後が残り続ける。
例えそのページを2度と読むことはなくても、真の意味で無かったことには出来ないんですよね。
始めから分かり合えたら。
分かり合えない人とは最初から出会わなければ後悔も迷いもなくなるのにって思ってしまいました。